MENU

初優勝の翌場所の成績2

初優勝の翌場所の成績はどうか。大正末から昭和にはい
って優勝制度は大きな変革を迎えた。
新聞社制定の優勝から協会認定の優勝に変わるきっかけ
が、大正14年におこった。摂政宮殿下(後の昭和天皇)か
らの下賜金によって天皇賜杯がつくられた。これを機会に
翌年から幕内最高成績者に授与されるようになった。そし
て優勝者を協会が表彰するようになった。最初の優勝者は
横綱常ノ花であった。
160124千秋楽表彰
<賜杯>
 
優勝制度上解消しなければならない問題がいくつかでて
きた。預かり、無勝負、引き分け、対戦相手が休場すると
自分も「や」という休場扱いになる点である。
取り直しが制度として正式に決めたのは大正14年の11月
である。それによって星取り表上預かり無勝負がなくなった
のは、大正15年春場所からである。取り直しは現在のよう
にすぐ取り直さず、2番後取り直したが、それでも勝負が
つかないときは、別の日に再戦した。
 
さらに、不戦勝不戦敗制度は昭和2年関西でおこなわれ
た十月場所から正式に適用された。それ以前には熱戦後
取り直しで一方の疲労が激しく棄権したため不戦勝にな
ったことがある。不戦勝の制度が徹底していなかったため、
不戦勝は正規の勝ち星より劣るといった考えが一人歩き
していた。そのため、1928(昭和3)年3月正式に不戦勝
不戦敗制度が確立して、これ以降不戦勝の力士は土俵で
勝ち名乗りを受けるようになった。
東西制、最高成績者が複数の場合は番付上位者が優勝は、
以前と同様のなか、初優勝したのが、表2である。
表2A
この表をよくみると優勝した山錦の地位が翌場所も同じ
前頭5枚目である。同様に小結武蔵山の優勝の翌場所も
小結である。これには事情があった。東西合併によって
西日本にも本場所を開催することになった。昭和2年から
7年は東京場所・関西場所・東京場所・関西場所と年4場
所制になった。
山 錦
<山錦のブロマイド>

最初、東京場所は東京場所、関西場所は関西場所で番付
を編成していた。しかし、これは東京場所では幕内、関西
場所では十両などなんともバランスの悪さが生じることに
なる。そこで昭和3年夏場所から東京場所と関西場所の
2場所の成績の合計で番付を編成することにした。これに
よって、東京場所と関西場所は同じ番付になることになっ
た。玉錦もこれに該当する。
ここでは大関能代潟、平幕山錦が負け越している。また
大関常陸岩は不戦勝が1つあり、同成績の平幕三杉磯が
上だという主張がでた。まだ不戦勝の認識が行き届いて
いなかったことがわかる。綾櫻は春秋園事件で協会を脱
退したため、翌場所の成績がない。
常陸 岩!
<常陸岩のブロマイド>
 
春秋園事件につては2015年11月17日の昭和・平成の10大
ニュース2春秋園事件、または2015年4月24日の出羽海の
系統7及び4月29日の出羽海の系統8を参照いただきたい。
実は、春秋園事件は東西制だった取組を変更するきっかけ
にさえなった。
場所後、新たなテーマで書いていきます。
マーク2カ所をクリックして応援してください。
よしなに
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村 

相撲 ブログランキングへ 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑    

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

目次