大相撲

初優勝の翌場所の成績2

2016年2月6日

初優勝の翌場所の成績はどうか。大正末から昭和にはい
って優勝制度は大きな変革を迎えた。

新聞社制定の優勝から協会認定の優勝に変わるきっかけ
が、大正14年におこった。摂政宮殿下(後の昭和天皇)か
らの下賜金によって天皇賜杯がつくられた。これを機会に
翌年から幕内最高成績者に授与されるようになった。そし
て優勝者を協会が表彰するようになった。最初の優勝者は
横綱常ノ花であった。
160124千秋楽表彰
<賜杯>
 
優勝制度上解消しなければならない問題がいくつかでて
きた。預かり、無勝負、引き分け、対戦相手が休場すると
自分も「や」という休場扱いになる点である。

取り直しが制度として正式に決めたのは大正14年の11月
である。それによって星取り表上預かり無勝負がなくなった
のは、大正15年春場所からである。取り直しは現在のよう
にすぐ取り直さず、2番後取り直したが、それでも勝負が
つかないときは、別の日に再戦した。
 
さらに、不戦勝不戦敗制度は昭和2年関西でおこなわれ
た十月場所から正式に適用された。それ以前には熱戦後
取り直しで一方の疲労が激しく棄権したため不戦勝にな
ったことがある。不戦勝の制度が徹底していなかったため、
不戦勝は正規の勝ち星より劣るといった考えが一人歩き
していた。そのため、1928(昭和3)年3月正式に不戦勝
不戦敗制度が確立して、これ以降不戦勝の力士は土俵で
勝ち名乗りを受けるようになった。

東西制、最高成績者が複数の場合は番付上位者が優勝は、
以前と同様のなか、初優勝したのが、表2である。
表2A
この表をよくみると優勝した山錦の地位が翌場所も同じ
前頭5枚目である。同様に小結武蔵山の優勝の翌場所も
小結である。これには事情があった。東西合併によって
西日本にも本場所を開催することになった。昭和2年から
7年は東京場所・関西場所・東京場所・関西場所と年4場
所制になった。
山 錦
<山錦のブロマイド>

最初、東京場所は東京場所、関西場所は関西場所で番付
を編成していた。しかし、これは東京場所では幕内、関西
場所では十両などなんともバランスの悪さが生じることに
なる。そこで昭和3年夏場所から東京場所と関西場所の
2場所の成績の合計で番付を編成することにした。これに
よって、東京場所と関西場所は同じ番付になることになっ
た。玉錦もこれに該当する。

ここでは大関能代潟、平幕山錦が負け越している。また
大関常陸岩は不戦勝が1つあり、同成績の平幕三杉磯が
上だという主張がでた。まだ不戦勝の認識が行き届いて
いなかったことがわかる。綾櫻は春秋園事件で協会を脱
退したため、翌場所の成績がない。
常陸 岩!
<常陸岩のブロマイド>
 
春秋園事件につては2015年11月17日の昭和・平成の10大
ニュース2春秋園事件、または2015年4月24日の出羽海の
系統7及び4月29日の出羽海の系統8を参照いただきたい。
実は、春秋園事件は東西制だった取組を変更するきっかけ
にさえなった。
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  • この記事を書いた人
denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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