大相撲

初優勝の翌場所の成績1

2016年2月5日

琴奨菊初優勝の余韻とその話題がつきないが、琴奨菊に
とって大切なのは、三月場所である。相撲博物館が優勝
力士100人の企画を展示したのは、鶴竜がちょうど100人
目であったからである。その後照ノ富士、琴奨菊が初優勝
を達成したので、琴奨菊は102人目の優勝者になる。それ
では初優勝力士は、翌場所どのような成績を残しているか。
琴奨菊の三月場所を占う意味を含め、調べてみた。
横綱太刀山絵葉書
<太刀山のブロマイド>

優勝と一口にいっても、時代によって制度があまりにも、
違いすぎる。そこで、どんな制度のもとでの優勝かを吟味
しながら、翌場所の成績をみていただきたい。優勝制度の
前提となったのは、明治42年の両国国技館の完成である。

時事新報社が幕内最高成績者の額を国技館に掲げること
になった。これが優勝制度の始まりとなった。第1回は平幕
の高見山酉の助が7勝3分で優勝者となった。しかし、これ
はあくまで新聞社が制定したものである。現代でも報知新聞
社が独自に年間最優秀力士を表彰している。位置付けは
似通っている。
栃木山
<栃木山のブロマイド>
 
そのため、優勝を争う制度が整っていなかった。取組は
東西制で同じ方屋の力士とは対戦しなかった。また、対
戦相手が休場したら、自分の星取表に「や」がつく仕組
みだった。取り直し制度がなく、物言いの結果、難しい
判断のときは、預かりや無勝負になった。それが表1で
ある。優勝決定戦制度はなく、同成績の場合は番付上位
者が優勝であった。なお、付け加えるなら、この時期は年
2場所制である。
表1A
強豪の太刀山、栃木山はさすがに翌場所優勝している。
両力士とも連続優勝後は横綱に昇進している。なおかつ
この後5連覇を達成している。平幕優勝が3例ある。紫色
の力士は横綱・大関との対戦がない力士で両(前名松
ヶ崎)と鶴ヶ濱が該当する。負け越したのは高見山と鶴ヶ
濱である。新入幕で優勝した両(前名松ヶ崎)は健闘し
て7勝2敗1分の成績を残している。常陸山の途中休場、
3代目西ノ海の全休を除けば、比較的好成績をあげてい
る。次回は協会の優勝認定後をみていく。
両国絵葉書
 <両國(前名松ヶ崎)のブロマイド>

場所後、新たなテーマで書いていきます。
マーク2カ所をクリックして応援してください。
よしなに
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村 

相撲 ブログランキングへ 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑   

 

当サイトはブログランキングに参加しています、どうか応援をお願いいたします!

【ブログランキング】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック


【日本ブログ村】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村
  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

-大相撲

Copyright© 土俵の目撃者(毎日更新) , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.