出羽海部屋を大部屋にしたのは明治の角聖常陸山である。
元出羽ノ海の常陸山亡き後、出羽海を継いだのは元両国
(前名国岩)である(ここから出羽ノ海の「ノ」の字は
なくなる)。出羽海が分家独立を許さずという不文律が
できたのは元両国(前名国岩)の出羽海の代からである。
分家独立を許さずの出羽海で、九重が独立へと動く最初
のきっかけは元常ノ花の出羽海の突然の死だった。跡目
争いで元出羽ノ花の武蔵川と元横綱千代の山の九重が争
い、武蔵川が支持を集めて出羽海になった。出羽海と九
重は17歳の年の開きがあった。次の出羽海は自分という
思いが九重にはあった。
だが、それはもろくも打ち砕かれた。元出羽ノ花が出羽
海になった昭和35年12月から約2年4ヶ月後の昭和38年
4月にあることがおきた。それは大関佐田の山が出羽海
の市川家に婿入りしたのである。
出羽海部屋は昭和41年9月に鉄筋ビルにつくりかえたと
き、部屋の名義は横綱佐田の山のものになっていた。こ
れで九重の出羽海継承の可能性は完全になくなった。
九重は独立の腹を固めていた。独立にあたっては連れて
いく弟子の問題があった。当時の関取は先代出羽海と九
重が連れてきた弟子がほとんどであった。
昭和42年一月場所後の31日午後4時出羽海部屋の3階大
広間は重苦しい雰囲気が支配していた。正面中央に机を
前にした出羽海(元出羽ノ花)。その右には秀の山(元
笠置山)、左には分家の春日野(元栃錦)、さらに左サ
イドに不知火(元八方山)、藤島(元出羽湊)、出来山
(元汐ノ海)、田子ノ浦(元出羽錦)、松ヶ根(元羽島
山)、峰崎(元那智山)、境川(元大起)、阿武松(元
大晃)が2列に並んでいた。出羽海の下座には九重(元
千代の山)が正座するといういささか時代がかった光景
となっていた。
<九重部屋の独立を報じる大相撲(読売新聞社刊)>
出羽海は低頭する九重を前にして口を開いた。「君の申
し入れた部屋の分離を承認する。ただし、要求した力士
のなかに親が反対している者が3人いるから残すように。
あとはよろしい」英断だった。九重の申し入れがほぼ受
けいられたカタチになった。だが、出羽海はこう続けた。
「分離によって君と所属力士は出羽海、春日野といった
一門からはずす。いいな」名門からの破門である。九重
は承諾した。
出羽海が九重だけ出て行けというような強行意見を採用
しなかったのは、以下によるものだと考えられる。
1.お家騒動になっては相撲人気に大変なマイナスである
こと
2、認められなければ九重は力士を連れて脱退覚悟で
あったこと
3.そうなれば協会裁定で出羽海・九重の両者に謹慎の
可能性がでて、醜態を世間にさらしてしまう結果になる
こと
4.北の富士らの決意は固く、最悪髷を切る覚悟であった
こと
5.新聞に九重とともに行動する力士の名前が出てしまい、
出羽海部屋にいずらい流れが出てきたこと
6.将来佐田の山が出羽海を継ぐにあたり、不満分子を
一掃できること
知恵者出羽海ならではの決断であった。こうして九重部
屋は破門独立して誕生した。
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