大相撲

昭和・平成の10大ニュース4両国国技館から蔵前国技館へ

2015年11月17日

以前、相撲史を真っ二つにするとどこで分けるかという
テーマで書いたとき、明治42年6月に開設した両国国技
館とした。雨に左右されない常設館はそれほど画期的で
大相撲に変化をもたらした。ところが、その両国国技館
が使用できなくなる時代がくるとは、戦争はまさに大相
撲さえ変えてしまったのである。

昭和20年8月15日終戦。東京大空襲で東京は焼け野原、
国技館も被害甚大だった。応急修復に取り組んだものの、
屋根と窓ガラスまでいき届かず、秋場所は晴天10日間興
行となった。翌年の昭和21年には国技館は進駐軍に接収
され、メモリアルホールになった。協会は再三借用を申
し入れ、なんとか場所開催に至った。これが、両国国技
館が最後に使われた場所になった。

その後明治神宮外苑→大阪福島公園仮設国技館→浜町仮
設国技館→大阪福島公園仮設国技館と変遷してきた。浜
町の仮設国技館は都の所有地のため取り壊された。そこ
で戦前から購入し、倉庫会社に貸し出していた蔵前の土
地に仮設国技館を建てることにした。海軍の飛行機組み
立て工場で解体した払い下でげの鉄骨の骨組みと屋根と
囲いはトタンぶきで突貫工事で間に合わせた。

昭和25年春場所から蔵前仮設国技館は使用されるように
なった。仮設の文字がなくなったのは、昭和29年の秋場
所からであった。ここから30年にわたって蔵前国技館は
大相撲の常設館として栃若、柏鵬、北玉、輪湖など様々
な名勝負・大勝負を展開したのである。
蔵前国技館
 <蔵前国技館>

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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