大相撲

幻の北九州本場所

2015年10月30日

九州の本場所が近づいてきた。会場は地下鉄呉服町から
徒歩で13分くらいの福岡国際センターである。しかし、
最初から福岡国際センターだったわけではない。昭和初
期の福岡開催は別として、定期的に福岡で本場所が開催
されるようになったのは、昭和32年からである。

その年は神武景気で、洗濯機、テレビ、冷蔵庫の売れ行
きが伸びた年である。相撲界は自殺未遂した出羽海理事
長(元横綱常ノ花)に代わって時津風(元横綱双葉山)
が理事長に就任した年である。

九州本場所は他の本場所と違った興行になった。それは
会場である福岡スポーツセンターの買い興行というカタ
チでスタートしたのである。自主興行を目指す協会は、
昭和48年自主興行にした。その後も自主興行を主張する
協会と買い興行を主張する福岡スポーツセンターの話し
合いは、エスカレートして、完全に物別れに終わった。
そこで協会は翌年の昭和49年から会場を九電体育館に移
した。しかし、九電体育館は会場としては6050人収容で
あり、いかにもこぢんまりとしていた。

会場が九電体育館に決まる中、北九州市議会で九州本場
所の北九州市誘致案が提出されていた。政財界にも積極
的に働きかけ、可決する公算が大きかった。その場合の
会場は1万50人収容の北九州市総合体育館である。北九
州市が青少年のスポーツ高揚を目的として建てたもので
ある。総工費19億円(当時)で、冷暖房完備の豪華な施
設である。
北九州
<当時の新聞>
 
ここで、バレーボールや全日本プロレスが行われたが、
市の関係者は体育館にふさわしい目玉を必要としていた。
そんなおり、もちあがったのが、大相撲の誘致だった。
しかし、協会は時期尚早論だった。相撲興行の難しさは
簡単にクリアというわけにはいかなかった。交通の便が
どの駅からバスで10分、25分かかるという問題もあった。

協会は九電体育館の設営に1億8千万円かけただけでな
く、土俵の屋根を1千万円かけて新調した。(当時の価
格)観客の座布団も新調し、駐車場も300台使用に改善し
た。当時の九州本場所の担当は時津風理事(元大関豊山)
は9月中旬から福岡にのり込んで指揮をとった。時津風
理事はファンサービスに努め、新たな会場の不安を一蹴
しようと奮闘した。

こうして大相撲の九州本場所の北九州市移転は幻と消え
た。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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