2014年夏の終わりから秋にかけて、相撲博物館が優勝力
士100人という企画で展示を行ったことは新しく、画期
的だった。明治42年の高見山(酉)から鶴竜まで優勝者
がちょうど100人に達していたのだ。これまで、優勝力
士が何人目の優勝者かなんて考えたこともなかった。当
の優勝力士も同様だったと思う。NHK解説者の北の富
士さんもテレビデでそうした趣旨を語っている。2015年
五月場所新たに照ノ富士が優勝し、101人目になったわ
けである。
<相撲博物館の優勝力士100人の案内>
三賞は戦後相撲人気をなんとか盛り返したい協会と記者
クラブが共同で考案した。優勝者が限られた力士しか狙
えないのに比べ、三賞なら狙えると力士にも好評だった。
昭和22年秋場所からスタートした。最初は基準がはっき
りしなく、横綱・大関も候補だった。第1回の殊勲賞と
敢闘賞が現在の基準と逆の受賞になってしまった。
定着した三賞は今年で68年たったことになる。そこで殊
勲・敢闘・技能賞の受賞者は何人目か調べてみた。それ
が以下である。
当者なしの差と1場所のダブル受賞の影響が大きい。こ
れまで該当者なしは殊勲賞55場所、敢闘賞12場所に比べ、
技能賞は68場所ある。しかし、実はそれだけではない。
最初の該当者なしが出たのは昭和32年の十一月場所であ
る。その前場所までは三賞は毎場所1人ずつ受賞者が出
ていたわけである。前場所までに、殊勲賞は22人目、敢
闘賞は25人目、技能賞は15人目で、この時点ですでに差
がついていた。技能賞は特定の力士が受賞する傾向があ
り、殊勲・敢闘賞と受賞何人目の数値で差がつく傾向が
あったのである。
さらに詳しくみていこう。
(この項目続く)
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