大相撲

三賞力士100+α人

2015年10月23日

2014年夏の終わりから秋にかけて、相撲博物館が優勝力
士100人という企画で展示を行ったことは新しく、画期
的だった。明治42年の高見山(酉)から鶴竜まで優勝者
がちょうど100人に達していたのだ。これまで、優勝力
士が何人目の優勝者かなんて考えたこともなかった。当
の優勝力士も同様だったと思う。NHK解説者の北の富
士さんもテレビデでそうした趣旨を語っている。2015年
五月場所新たに照ノ富士が優勝し、101人目になったわ
けである。
博物
<相撲博物館の優勝力士100人の案内>
 
三賞は戦後相撲人気をなんとか盛り返したい協会と記者
クラブが共同で考案した。優勝者が限られた力士しか狙
えないのに比べ、三賞なら狙えると力士にも好評だった。
昭和22年秋場所からスタートした。最初は基準がはっき
りしなく、横綱・大関も候補だった。第1回の殊勲賞と
敢闘賞が現在の基準と逆の受賞になってしまった。

定着した三賞は今年で68年たったことになる。そこで殊
勲・敢闘・技能賞の受賞者は何人目か調べてみた。それ
が以下である。
三賞1A
三賞2A
三賞3A
三賞訂正100A

三賞5A
三賞6A
三賞7A
三賞8A
三賞9A
敢闘賞がやたら多く、技能賞が極端に少ない。これは該

当者なしの差と1場所のダブル受賞の影響が大きい。こ
れまで該当者なしは殊勲賞55場所、敢闘賞12場所に比べ、
技能賞は68場所ある。しかし、実はそれだけではない。

最初の該当者なしが出たのは昭和32年の十一月場所であ
る。その前場所までは三賞は毎場所1人ずつ受賞者が出
ていたわけである。前場所までに、殊勲賞は22人目、敢
闘賞は25人目、技能賞は15人目で、この時点ですでに差
がついていた。技能賞は特定の力士が受賞する傾向があ
り、殊勲・敢闘賞と受賞何人目の数値で差がつく傾向が
あったのである。

さらに詳しくみていこう。

(この項目続く)

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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