大相撲

無念!玉の海3

2015年10月9日

27歳の青年横綱玉の海の急死。それはあまりにも衝撃的
で、大相撲に触れてからこれ以上ない悲しみの出来事だ
った。日本中の大相撲ファンが悲しみにくれた。まだ取
り盛り、双葉山の域にどこまで近づけるか。そんな楽し
み、可能性さえ失ってしまった。玉の海の訃報を知り、
虎ノ門病院に駆けつけた双葉山に傾倒し、玉乃島のとき
から玉の海のよさを最初に見出した小坂秀二氏は次のよ
うに語っている。

駆けつけた病室の前の廊下には、二子山親方(もと横綱
若乃花)と、かつて私のNHK時代には一緒に働いた社会
党の上田哲参議院議員の二人が、沈痛な面持ちですわっ
ていた。二子山に案内されて、遺体のある病室に入った。
玉の海の体をおおった白布がパッと目に入る。突然、胸
にはげしく突きあげてくるものがあって、私は膝の力を
失った。くずれる体をかろうじてベッドでささえたが、
同時に、体の奥から噴き出るように号泣してしまった。

「どうか顔を見てやって下さい」と、これも涙の片男波
夫人がうながす。「おだやかな死に顔でした」という言
葉は、死者に対する礼であるかもしれないが、私にはど
うしてもそういう言葉を用いることはできない。白布の
下の玉の海の顔は、あのいつもの明るい玉の海の顔では
なかった。また、いつもの無欲な玉の海の顔でもなかっ
た。私がはじめて見る、玉の海の違った顔であった。そ
れは、言うならば”無念の顔”であった。”心残りの顔”
であった。その顔を見て、私はまた玉の海の悲運に泣い
た。
横綱玉の海土俵入り写真
胸の上に組まれた腕を、私はなでさすった。その腕は、
まだ若く、たくましく、鍛え抜かれた張りを持っていた。
こんなに、生きる力、伸びる力を持っている体なのだか
ら、玉の海は、どんなに残念だったろう。どんなに生き
たかったことだろう。やりたいことがいっぱいあったは
ずだ。そのことを、つい少し前に話し合ったばかりだっ
たのだ。

玉の海の死は、すべての人から惜しまれた。私も惜しい。
しかし、玉の海の心情を思うと、私たちの気持ちがどう
こうと言うより、玉の海がかわいそうでならない。玉の
海の無念さ、残念さが、その顔に残っているのだ。
(がちんこ相撲-誰が現代の双葉山か-小坂秀二著
いんなあ とりっぷ社刊より)

いささか長い引用になったが、玉の海の死に直面した貴
重な証言である。略さずきちんと伝えたかったのである。
玉の海が生きていたら、北の富士とともに角界をリード
しただろう。昭和47年から始まった誰が優勝するかまる
でわからない戦国場所はなかったろう。横綱琴桜の誕生
もなかった可能性がある。大鵬には勝った貴ノ花はつい
に玉の海に1度も勝てなかった。打倒玉の海は貴ノ花を
急成長させただろう。輪島の横綱昇進、北の湖の横綱昇
進はもう少し遅れたかもしれない。玉の海の死はあまり
にも大きな損失だった。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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