大相撲

横綱の休場率1

2015年10月10日

48場所連続横綱出場と驚異的な数字を誇っていた白鵬が
九月場所初めて休場した。しかし、ここまで休場がなか
ったというのは超人的であった。どれくらい超人的か、
ほかの横綱と比較してみよう。横綱が実質地位化した常
陸山以降の横綱を調べてみた。まず、明治大正期の横綱
からみてみる。

この時期の横綱は現代と比較して制度上2つのものがな
い。まず取り直し制度である。勝負判定がどうしても白
黒つかないときは、預かりとなる。また勝負がつかない
ときは2番後取り直しということもない。当時は四つ相
撲で勝負がなかなかつかず、引き分けが多かった。
横綱 常陸山谷右エ門
<常陸山の絵葉書>
 
さらに、休場に関しては2点指摘しておかなくてはなら
ない。1つは明治42年6月国技館開設以前、千秋楽は幕
内は出場しなかった。そのため千秋楽は「や」であった。

もう1つは、対戦相手が休場すれば今なら不戦勝だが、
当時は自分も「や」扱いになった。この2点は自分のせ
いではない。そのため、ここでは数字としてカウントし
なかった。あくまで自分の都合による休場のみを取り上
げた。その結果、明治大正期の横綱の休場率は以下にな
った。
横綱の休場1A
自己都合による休場数÷出場機会×100=休場率である。
だが、意外と数字が高い。角聖常陸山44.98%、一突き
半の鉄砲太刀山35.71%である。常陸山の場合は渡航で
世界をまわり、本場所を休場したケースまである。3日
に1回休場すると33.3%の休場率になる。年2場所で、
こんなに休んでは観客は極端に見れなかった横綱が出て
も不思議ではない。
横綱 大錦
<大錦の絵葉書>
 
大正時代の大横綱大錦によって初めて10%台の休場率に
なった。それ以前は20%台さえいなかった。さらに栃木
山によって1ケタの休場率がようやく実現した。ただ、
両力士とも晩年を迎えることなく引退したという面はあ
る。
栃木山)絵葉
<栃木山の絵葉書>
 
この後、取り直し制度、不戦勝不戦敗制度ができてから
の横綱の休場率を見ていこう。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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