大正15年、新聞社制定優勝から協会が認定する優勝へと
変遷した。優勝制度上解消しなければならない問題が、
いくつかでてきた。預かり、引き分け、対戦相手が休場
すると自分も「や」扱いになる点である。
取り直し制度はいつからできたのか。星取り表上預かり、
無勝負がなくなったのは大正15年春場所(1月)である。
しかし、制度として正式に決めたのは前年の11月である。
取り直しは現在のように、すぐ取り直さず、2番後であ
った。それでも勝負がつかないときは、別の日に再戦し
た。
不戦勝制度は昭和2年関西でおこなわれた十月場所から
10日目・千秋楽の幕内限定で適用された。それ以前には、
熱戦後取り直しで一方が疲労が激しく、棄権したため不
戦勝になったことがある。不戦勝の制度が徹底していな
かったため、不戦勝は正規の勝ち星より劣るといった考
えが一人歩きしていた。そのため、昭和3年3月正式に
不戦勝不戦敗制度が確立して、これ以降不戦勝の力士は
土俵で勝ち名乗りを受けるようになった。
横綱でいうと3代目西ノ海と常ノ花は前制度と新制度の
端境期で途中から取り直し制度と不戦勝不戦敗制度の適
用を受けている。不戦敗は出場していないので休場扱い
にした。そのためここから(休場数+不戦敗)÷出場機
会×100=休場率となる。なお、場所中の引退は途中休
場扱いしていない。
宮城山は大阪から来た横綱だが、扱った数値は東西合併
後のものである。宮城山・3代目西ノ海・常ノ花から、
横綱審議委員会が誕生する以前の東富士までの横綱の休
場率は以下である。
1場所、休場率は驚異の72%である。休場だらけの横綱
である。今後この数字を超える横綱はおそらく出るまい、
と思うほどのひどさである。横綱最弱は前田山ではなく、
武蔵山である。昭和6年大阪場所、沖ツ海との対戦で破
壊された右腕は骨折と脱臼のため後遺症を引きずってい
た。悲劇の横綱だった。
国民的英雄であり、第一人者の双葉山は10.62%の休場
率で、このなかでは一番いい数値である。横綱50人中7
位である。双葉山の初休場は昭和15年夏場所である。こ
のとき「信念の歯車がくるった」という有名な言葉を残
している。九州の山にこもって滝に打たれて苦悩から抜
け出した。
双葉山以前に時代を築いた玉錦も休場率は少ない。双葉
山についで横綱50人中8位である。玉錦は巡業中虫垂炎
にもかかわらず、医者にいかない、腹を温めるなど対応
を誤ったことが致命的になって命を落としている。享年
35歳であった。
羽黒山は双葉山の弟弟子で相撲は堅実であった。戦後の
相撲界を支えた逸材であった。休場が多いのは昭和22年
の巡業中での稽古でアキレス腱を切ったためである。横
綱在位が30場所と当時としては最長在位だった割に皆勤
は19場所と寂しい数値になっている。
引き続きほかの横綱の休場率を見ていく。
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