大相撲

出羽海の系統17

2015年7月6日

大阪からきた三保ヶ関部屋は師匠元滝ノ海の急死により
増位山(父)は一時出羽海に身を寄せた。彼は引退後
三保ヶ関部屋を復興し、苦難の中から大横綱北の湖、
大関北天佑、大関増位山(子)等を育てた。息子増位山が
いたので三保ヶ関部屋の後継は決まっていた。そのため、
北の湖が独立するのは明白であった。独立に関しては
かつての小野川部屋の信夫山のように独立に待ったを
かける者はいなかった。
三保

出羽海は佐田の山の代になって三重ノ海が独立、鷲羽山の
代で両国(前名小林山)、久島海が独立した。もはや
分家独立を許さずという不文律は微塵もなかった。その
反面本家出羽海は一時関取がいなくなるという状態が
続いた。十両に上がったり落ちたりの出羽疾風がかろう
じていたなかで、今度学生横綱・アマ横綱の御岳海が
十両入りした。
出羽

春日野部屋も栃ノ海の代で栃東、栃司が独立して部屋を
興した。栃乃和歌の代で舛田山が独立した。春日野は
急死した田子ノ浦(元久島海)の一部の力士や閉鎖に
なった三保ヶ関の弟子を受け入れてきた。
春日野

破門独立となった元千代の山の九重部屋はどうなった
ろうか。北の富士が引退後井筒部屋として独立したものの
元千代の山の九重が亡くなったため、九重と井筒を一緒に
して新生九重部屋としてスタートした。そのなかから
千代の富士、北勝海の両横綱を育てた。
九重

現在出羽海部屋から独立したのは古くは春日野(元栃木山)
部屋、山分(元大門岩)部屋(閉鎖)、武隈(元両国(前名
松ヶ崎)部屋(破門)、九重(元千代の山)部屋(破門)、
現代は武蔵川(元三重ノ海)部屋、境川(元両国(前名
小林山))部屋、田子ノ浦(元久島海)部屋(消滅)と
なったいる。分家の春日野部屋からは玉ノ井(元栃東)
部屋、入間川(元栃司)部屋、千賀ノ浦(元舛田山)
部屋と3つの部屋が独立した。

分家独立を許さずという出羽海の不文律は歴史の彼方へと
消えてしまった。同時に出羽海部屋は名門としての栄光を
失い、どん底から再出発しようとしている。

長きに渡った「出羽海の系統」ご愛読誠にありがとう
ございました。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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