元両国(前名国岩)の出羽海が亡くなられた。出羽海の
後継者を決めねばならないが、候補者は3人いた。元横綱
常ノ花の藤島、元笠置山の秀ノ山、元両国(前名瓊ノ浦)
の待乳山の3人である。秀ノ山の嫁さんは横綱常陸山の
孫娘という流れから、待乳山は自分を支持するよう力士に
触れまわるなど手をまわしていた。
実は待乳山は戦後まもなく、独立を申し出たが断られて
いる。また、元綾昇の千賀ノ浦が部屋復興(かつて出羽海
に併合された)を訴えたが、師匠の綾川が部屋経営を
投げ出すように出羽海に託したため復興はならなかった。
元両国(前名国岩)の出羽海はかねてから「自分は横綱で
なかっただけに大部屋をまとめるのに苦労した。出羽海
部屋は元横綱がのほうがおさまりがいい」と語っていた。
それを受けて7代出羽海は元常ノ花に決定した。この
ころの出羽海部屋は関脇千代ノ山に期待するところが
大きかった。大阪の三保ヶ関部屋の師匠元十両の滝ノ海が
1946(昭和21)年に亡くなり、弟子が出羽海に預けられた。
その弟子の中から増位山が大関に昇進していた。
また、分家の山分部屋は元大門岩のあとを弟子の駒ノ里が
引き継いだが、1949(昭和24)年5月部屋を閉じた。
元駒ノ里の山分はその後出羽海部屋に属した。この結果
出羽海の分家が1つ減り、春日野部屋だけになった。
元両国(前名松ヶ崎)の武隈部屋は破門のためカウント
していない。
1934(昭和19)年元横綱常ノ花は年寄藤島のとき45歳で
理事長に就任している。33歳で引退して35歳で取締につく
スピード出世であった。戦後の混乱期を乗り切り、再建の
道筋をつけたのは藤島と元出羽ノ花の武蔵川の経営的手腕
によるところが大きかった。
なお、1950(昭和25)年増位山の三保ヶ関部屋復興は
すんなりいった。三保ヶ関部屋は元々大阪からきた部屋の
ため、分家独立を許さずという不文律はその後、適用
されることはなかった。
1951(昭和26)年秋場所には出羽海部屋が期待する千代
ノ山が横綱に昇進し、1955(昭和30)年初場所には春日野
部屋の栃錦が横綱に昇進した。しかし、いいことばかり
ではなく、まもなく出羽海を最大の苦悩が襲うのであった。
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