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出羽海の系統10

元両国(前名国岩)の出羽海が亡くなられた。出羽海の
後継者を決めねばならないが、候補者は3人いた。元横綱
常ノ花の藤島、元笠置山の秀ノ山、元両国(前名瓊ノ浦)
の待乳山の3人である。秀ノ山の嫁さんは横綱常陸山の
孫娘という流れから、待乳山は自分を支持するよう力士に
触れまわるなど手をまわしていた。
瓊ノ浦
<瓊ノ浦時代の両国の絵葉書>
 
実は待乳山は戦後まもなく、独立を申し出たが断られて
いる。また、元綾昇の千賀ノ浦が部屋復興(かつて出羽海
に併合された)を訴えたが、師匠の綾川が部屋経営を
投げ出すように出羽海に託したため復興はならなかった。
元両国(前名国岩)の出羽海はかねてから「自分は横綱で
なかっただけに大部屋をまとめるのに苦労した。出羽海
部屋は元横綱がのほうがおさまりがいい」と語っていた。
それを受けて7代出羽海は元常ノ花に決定した。この
ころの出羽海部屋は関脇千代ノ山に期待するところが
大きかった。大阪の三保ヶ関部屋の師匠元十両の滝ノ海が
1946(昭和21)年に亡くなり、弟子が出羽海に預けられた。
その弟子の中から増位山が大関に昇進していた。
常ノ花
<常ノ花の絵葉書>
 
また、分家の山分部屋は元大門岩のあとを弟子の駒ノ里が
引き継いだが、1949(昭和24)年5月部屋を閉じた。
元駒ノ里の山分はその後出羽海部屋に属した。この結果
出羽海の分家が1つ減り、春日野部屋だけになった。
元両国(前名松ヶ崎)の武隈部屋は破門のためカウント
していない。
1934(昭和19)年元横綱常ノ花は年寄藤島のとき45歳で
理事長に就任している。33歳で引退して35歳で取締につく
スピード出世であった。戦後の混乱期を乗り切り、再建の
道筋をつけたのは藤島と元出羽ノ花の武蔵川の経営的手腕
によるところが大きかった。
なお、1950(昭和25)年増位山の三保ヶ関部屋復興は
すんなりいった。三保ヶ関部屋は元々大阪からきた部屋の
ため、分家独立を許さずという不文律はその後、適用
されることはなかった。
増位山
<増位山のブロマイド>
 
1951(昭和26)年秋場所には出羽海部屋が期待する千代
ノ山が横綱に昇進し、1955(昭和30)年初場所には春日野
部屋の栃錦が横綱に昇進した。しかし、いいことばかり
ではなく、まもなく出羽海を最大の苦悩が襲うのであった。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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