元横綱常陸山の出羽ノ海亡き後の部屋の後継者は難航
した。候補としては元横綱常陸山の懐刀として大きな力を
尽くし、部屋持ちの元両国(前名国岩)の入間川。現役
ではあるが、親方を兼ねる二枚鑑札(現在は禁止されて
いる)として横綱大錦、同じく横綱栃木山である。しかし、
栃木山は元行司の木村宗四郎の春日野の養子になり、
引退後は春日部屋を興すことが確定している。地位から
いうと大錦だが、大錦には人望がなかった。大錦のイン
テリぶりとケチな噂があだとなって130人以上いる弟子の
支持を得られなかった。
結局元両国(前名国岩)の入間川が自分の部屋と出羽ノ海
部屋を併合し、部屋を預かるという形で後継者となった。
元両国(前名国岩)は先代に畏敬をこめて出羽海とし、
ノの字をはずした。新生出羽海として臨む1923(大正12)
年春場所前に突如事件は起きた。
本場所を1月12日に控える3日前力士会は養老金(退職金)
の倍額、本場所収入の分方を1割から1割5分にする、
十両入りした力士は幕下以下に落ちても配慮する処置を
するという3ヶ条の要求を協会に提出した。協会は重大な
問題だけに場所前の解決は時間的に無理。場所後あらた
めて慎重に検討する回答を明示したが、横綱・大関を
除く幕内力士・十両力士は即時回答を要求し、上野の
上野軒に立てこもった。
問題だけに場所前の解決は時間的に無理。場所後あらた
めて慎重に検討する回答を明示したが、横綱・大関を
除く幕内力士・十両力士は即時回答を要求し、上野の
上野軒に立てこもった。
協会は立浪(元緑島)、宮城野(元鳳)、浅香山(元
八嶋山)を派遣し、力士会委員の太刀光・司天竜・鶴ヶ浜・
三杉磯に対してあらためて場所後に解決することを
説いた。しかし、力士会は妥協の余地がないと判断し、
新たに11ヶ条の要求をつきつけた。
説いた。しかし、力士会は妥協の余地がないと判断し、
新たに11ヶ条の要求をつきつけた。
ここにいたって協会は幕下以下だけで本場所を開催し、
不出場者を破門除名とすることを通告した。これに
対し力士会は三河島の日本電解工場に土俵をつくって
稽古を始め、長期戦にはいる様相となった。世にいう
三河島事件である。
三河島事件である。
このとき参加しなかった力士は横綱(大錦・栃木山)、
大関(常ノ花・源氏山・千葉ヶ崎)に加え、伊吹山、
十両の御西山であった。代表大錦の横綱・大関と立行司
2人が調停にはいったが、力士会の反感を買った。そも
そも力士会の一員であるはずの横綱・大関が行動をともに
せず、調停役にまわるというのはきわめておかしいと
主張したのだ。大錦は「死を賭して解決にあたるつもり
だ」と語ったが、これが後に悲劇につなることになった。
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