大相撲

出羽海の系統3

2015年4月17日

元横綱常陸山が出羽ノ海谷右衛門となった初の本場所
1915(大正4)年の春場所、出羽ノ海部屋の幕内力士は
11人となった。これに続くのが友綱部屋(現在の友綱部屋
とのつながりはない)の5人であるから出羽ノ海部屋の
躍進ぶりが伺える。また、この年の役員改選で出羽ノ海が
取締首席に選ばれた。まだ引退して1年なのに年寄の
トップに立ったのである。
横綱 大錦
<大錦の絵葉書>
 
元横綱常陸山の出羽ノ海の指導は酒井忠正著日本相撲史
中巻 日本相撲協会発行 ベースボール・マガジン社刊
に次のように記してある。
厳にして温、専ら「誠」をもって養成
元横綱常陸山の出羽ノ海は大阪相撲からきていきなり
幕内付出しになった力士をのぞけば、横綱大錦、栃木山、
大関對馬洋、常ノ花、関脇小常陸、両国(前名松ヶ崎)、
大門岩、小結大ノ川、近江富士、四海波、平幕の宇都宮、
福柳(地位は元横綱常陸山の出羽ノ海存命中の最高位)
など数多くの弟子を育てた。なお、大ノ里は若松部屋、
湊川部屋を経て出羽ノ海部屋に来た移籍力士である。
現在個人の移籍は認められていない。 
小常陸絵葉書
<小常陸の絵葉書>
 
昭和の相撲を見てきた者にとっていつの時代でも出羽海
部屋というとつきまとう言葉がある。それは分家独立を
許さないという不文律である。この不文律はいつできた
のだろうか。常陸山のときは1913(大正2)年に引退した
両国(前名国岩)の入間川が独立するのを認めている。
この部屋からは大関の九州山十郎を出している。

また、栃木山、大門岩は当時の春日野・山分の養子に
はいっていたこともあり、将来独立することを元横綱
常陸山の出羽ノ海は認可していた。山分は元和田ノ海の
とき閉鎖になって、力士は伊勢ノ海と出羽ノ海へ移籍
した経緯があり、山分部屋は再興の位置づけでもあった。

こうした対応から元横綱常陸山の出羽ノ海のとき分家
独立を許さずという方針はなかったと考えられる。その
元横綱常陸山の出羽ノ海は思いがけず、1922(大正11)年
6月48歳で急死してしまった。出羽ノ海部屋の後継者
問題が急遽浮上くることになった。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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