大相撲

出羽海の系統2

2015年4月15日

ドブ虎常陸山虎吉が師匠の年寄名出羽ノ海と改めてから
人を介して市毛谷という少年が入門してきたのだ。後の
常陸山谷右衛門である。1890(明治23)年のことである。
しかし、稽古場がなく、高砂部屋で稽古する環境は少しも
変わらない。16歳の市毛谷は御西山でデビューするも、
序二段のとき常陸山に改名した。

常陸山は後に大横綱になるほどだからとんとん拍子に
出世したかというとけしてそうではなかった。それどころ
か巡業中脱走騒ぎを起こしている。身を寄せたのが名古屋
相撲、大阪相撲である。だが、それも人を介して復帰して
からは一気にスピード昇進を果たしていく。幕下2場所、
十両1場所で入幕を果たした。入幕6場所で大関に昇進
した。このころになると常陸山を慕って弟子が増えて
30人くらいになってきた。
横綱常陸山
<常陸山の絵葉書>
 
常陸山は相生町に部屋をかまえ、師匠夫妻をそこに住まわ
せた。さらに1903(明治36)年大阪相撲から国岩が常陸山
の門に入り、名前を両国と改めて幕内格で番付外に付出
された。国岩と一緒に来たのが後の近江富士だった。
脱走中に築いた人脈であった。大関5場所で横綱に昇進
した後は大阪相撲から八陣が四海波の名で、放駒が相生の
名で常陸山の門下に入り、東京相撲の土俵に上がった。
常陸山が併合した小部屋は元天津風の秀ノ山部屋、元
大泉の千賀ノ浦部屋、元達ヶ関の山科部屋、元稲瀬川の
入間川部屋、元千年川(ちとせがわ)の立田山部屋、
元獅子ヶ嶽の君ヶ浜部屋である。このうち入間川部屋には
後に新入幕優勝を果たす後の両国勇治郎がいた。
横綱 常陸山
<常陸山の引退>
 
常陸山は2代目梅ヶ谷とともに大相撲の黄金期を築いた。
1909(明治42)年6月には雨天でも相撲が決行できる
常設館が完成した。常陸山自身は1915(大正4)年春場所
大錦、栃木山が新入幕する前年に引退した。42歳であった。
師匠の出羽ノ海は名跡を引退した常陸山に譲り、隠居した。
常陸山が脱走して復帰したときは叱るどころか喜んだ
ドブ虎師匠は1915(大正4)年11月多くの弟子に看取られ
ながら65歳の生涯を閉じた。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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