大相撲

出羽海の系統1

2015年4月13日

出羽

数ある相撲部屋のなかでも名門といわれるのが出羽海部屋
である。そのルーツ、始まりはいつ誰からなのか。また、
どのような歴史をたどってきたのか。あらためて出羽海の
系統を追いかけてみた。出羽海部屋というと角聖といわ
れた明治の大横綱常陸山谷右衛門が横綱大錦、栃木山、
大関常ノ花をはじめ一代で築いた名門と思われがちである。
しかし、常陸山谷右衛門に出羽ノ海を名乗った師匠常陸山
虎吉がいる。さらに常陸山虎吉に出羽ノ海を名乗った
桂川がいる。この桂川こそ出羽海の祖にあたる。

それでは桂川とはどんな力士か。幕末の二段目までいった
が、不成績しかあげられなかった入間川部屋の力士である。
二段目とは今でいえば十両である。十両優勝力士の表彰状
は十両といわず十枚目と読む。十枚目は二段目が10枚目
までしかないことからきている。常陸山を名乗ったことも
あるが、最後は出羽ノ海を襲名した

桂川の出羽ノ海は稽古場もなく、小部屋というより部屋の
体裁をなしていない中で一人の弟子がいた。それが常陸山
虎吉である。常陸山虎吉は高砂部屋で稽古し、1882(明治
15)年夏場所に入幕を果たした。後横綱になった初代
西ノ海が同じ年の春場所に入幕している。しかし、師匠の
出羽ノ海は常陸山虎吉の入門4年後の1876(明治8)年に
亡くなっていた。出羽海の祖はあまりにも出羽海との
関わりが薄い存在であった。

師匠運のなかった常陸山虎吉は相撲よりドブ虎といわれる
ほどの酒好きで番付は前頭筆頭止まりだった。1890(明治
23)年からは出羽ノ海としてやっていくことにした。
そこへ現われたのが市毛谷という少年であった。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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