数ある相撲部屋のなかでも名門といわれるのが出羽海部屋
である。そのルーツ、始まりはいつ誰からなのか。また、
どのような歴史をたどってきたのか。あらためて出羽海の
系統を追いかけてみた。出羽海部屋というと角聖といわ
れた明治の大横綱常陸山谷右衛門が横綱大錦、栃木山、
大関常ノ花をはじめ一代で築いた名門と思われがちである。
しかし、常陸山谷右衛門に出羽ノ海を名乗った師匠常陸山
虎吉がいる。さらに常陸山虎吉に出羽ノ海を名乗った
桂川がいる。この桂川こそ出羽海の祖にあたる。
それでは桂川とはどんな力士か。幕末の二段目までいった
が、不成績しかあげられなかった入間川部屋の力士である。
二段目とは今でいえば十両である。十両優勝力士の表彰状
は十両といわず十枚目と読む。十枚目は二段目が10枚目
までしかないことからきている。常陸山を名乗ったことも
あるが、最後は出羽ノ海を襲名した
桂川の出羽ノ海は稽古場もなく、小部屋というより部屋の
体裁をなしていない中で一人の弟子がいた。それが常陸山
虎吉である。常陸山虎吉は高砂部屋で稽古し、1882(明治
15)年夏場所に入幕を果たした。後横綱になった初代
西ノ海が同じ年の春場所に入幕している。しかし、師匠の
出羽ノ海は常陸山虎吉の入門4年後の1876(明治8)年に
亡くなっていた。出羽海の祖はあまりにも出羽海との
関わりが薄い存在であった。
師匠運のなかった常陸山虎吉は相撲よりドブ虎といわれる
ほどの酒好きで番付は前頭筆頭止まりだった。1890(明治
23)年からは出羽ノ海としてやっていくことにした。
そこへ現われたのが市毛谷という少年であった。
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”土俵の目撃者”
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