大相撲

後の先の立ち合い

2015年2月15日

相撲の勝負は立ち合いで決まる。その立ち合いは同時に
立って早く攻めろという。先手をとって有利な体勢に
なることは自分の力を発揮でき、勝負の決め手になる。
さる2月11日のNHKの福祉大相撲において白鵬の口から
出た言葉は「後の先の立ち合い」である。この立ち合いは
双葉山を語る上で欠かせないとともに双葉山しか身に
つけられなかった立ち合いでもある。
V0071134
<NHKの福祉大相撲で語る白鵬>
 
双葉山といえば相手が立てばいつでも立つ立ち合いが
知られている。龍王山が1回目から立ったのを双葉山は
受けて立って左上手投げでしとめたことがあった。それ
では双葉山は後の先の立ち合いをいつ身につけたのだ
ろうか。そして後の先の立ち合いとはいかなるものか。

双葉山が後の先の立ち合いを身につけたのは69連勝して
いたときではない。双葉山の69連勝は1936(昭和11)年
春場所から1939(昭和14)年春場所まで続いた。連勝が
ストップした場所は9勝4敗と不調。その翌場所からは
15戦全勝、14勝1敗と再び優勝しだした。ところが、
翌場所の1940(昭和15)年夏場所は7勝5敗3休とまさに
どん底だった。このとき青年双葉山は悩みに悩みぬいた末
引退も考えたという。「信念の歯車がくるった」という言葉は
このときのものである。

人里を離れ山にこもった双葉山は精神的にふっきれ、
稽古はいっそう充実していった。1941(昭和16)年の
春場所優勝、1場所おいて4連覇を達成した。双葉山の
後の先の立ち合いがいわれるようになったのはこの時期
である。小坂秀二氏は相撲技論のなかでこう述べている。

双葉山の仕切りの立派さについては、人によっては、
その相撲ぶりよりも高く評価しているほどである。横綱
らしく「受けて立つ」仕切りをした人である。そのことに
ついて双葉山はかつてこう語っている。

「受けて立つという取り口には二通りあるように思う。
文字通り受けて立つには、よほど力の差がなくてはでき
ない。わたしなどは、それほど力の差があったわけでは
ないから、そういう相撲は取れなかった。たた、向こうの
声で立つ。向こうが立てば立つ。しかし、立った瞬間には
機先を制している。これをいわゆる”後の先”というので
しょうが、立った瞬間には自分として十分な体勢になって
いる。そういう立ち合いだったといえましょう」
双葉山ブロマイド
<双葉山のブロマイド>
 
仕切りの妙、立ち合いの真髄はここにあるというような
言葉である。双葉山の立ち合いは、つぶさに研究した。
双葉山は、腰を割って足をきめると、まず左手をつく。
右手はひざの上にあって、相手の動きを見ながら合わ
せていって、サッとおろす。おろして、砂についたときが
立ったときである。だから、おろすのは相手のほうが
早くても、立って土俵から手が離れる瞬間、双葉山の
ほうが早いのである。(大相撲1969年2月号 相撲技論
小坂秀二筆 読売新聞社刊より)

後の先の立ち合いは相手より遅れて立つように映るが
そうでないことが読み取れる。まさに極意中の極意で
ある。白鵬にできるか。双葉山の到達点はあまりにも
高い。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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