大相撲

2014年相撲クイズ 解答・解説(後半)

2015年1月7日

クイズの解答・解説の後半をご覧ください。

5.次の力士の共通点をあげなさい

旭豊
貴闘力
金親
安芸乃島
北桜

▼解答
出身の部屋あるいは出身の部屋から独立した部屋とは
異なる部屋を引き継ぐことになった方の現役名

旭豊 大島(元旭国)部屋出身の旭豊は本家の立浪(元
2代目羽黒山、前名安念山)部屋を継いだ。立浪親方の
娘と結婚したことによって実現した。しかし、後に離婚し、
立浪の名跡をめぐって元旭豊と元2代目羽黒山との間で
裁判沙汰になった。元旭豊が勝訴した。

貴闘力 二子山(元貴ノ花)部屋出身の貴闘力が継いだ
のは大鵬部屋である。同じ一門ではあるが、系列はまるで
違う。大鵬部屋は本家ニ所ノ関部屋から独立した部屋
である。貴闘力は最初所属したのは藤島(元貴ノ花)部屋
である。この部屋はニ所ノ関部屋から独立した芝田山
(元大ノ海)後の花籠部屋が源である。

花籠部屋から独立したのが二子山(元初代若乃花)であり、
二子山から独立したのが藤島(元貴ノ花)である。詳細は
2014年8月16日の「ニ所ノ関の系統1」の系統図をご覧
いただきたい。これも貴闘力が大鵬の娘と結婚することに
よって実現した。大鵬は一代年寄のため、大嶽部屋を引き
継いだ。しかし、元貴闘力の大嶽親方は野球賭博によって
相撲界を追放された。

金親 金親は北の湖親方の弟子である。宮城野の株を
持っている元広川の遺族と結婚したことによって宮城野
親方となった。本来なら元金親の宮城野は自分で弟子を
集めて部屋を運営し、宮城野は出羽一門となるのが普通
である。今まで宮城野だった元竹葉山は宮城野の株とともに
部屋を失った。元竹葉山は白鵬以下自分の弟子を連れて
一門の部屋と一緒になるのがこれまでの慣例だった。
080217白鵬倶楽部 349
<宮城野親方(元竹葉山)>
 
しかし、現実は元金親が旧宮城野の弟子を配下にして
部屋の師匠になった。しかも一門は出羽海ではなく立浪・
伊勢ヶ濱連合だった。なぜ、こんないびつなことになった
のか。当時横綱審議委員の内館牧子氏は「白鵬の師匠は
誰なのか」と聞いている。このとき北の湖親方ははっきり
竹葉山と答えている。現在、宮城野部屋は元竹葉山が
引き継いで正常なカタチに戻っている。

安芸乃島 元前ノ山が高砂部屋から独立しておこした
のが高田川部屋である。従ってルーツは高砂。ところが
元前ノ山の高田川が一門の意向に反して理事選に立候補
したため、高砂一門からはずされるという事態におちいった。

一方元安芸乃島は元大関貴ノ花の弟子だった。しかし
元大関貴ノ花の二子山が部屋を息子の貴乃花に譲った
ものの元安芸乃島との確執が執拗に続いた。元安芸乃島は
結果的に部屋を移籍し、高田川部屋に移った。やがて
高田川部屋を継承した。なお、現在高田川部屋は二所
一門に属している。

北桜 時津風部屋から独立したのが元大潮の式秀部屋で
ある。定年にともなって北の湖部屋の部屋付き親方の
元北桜が部屋を継いだ。なお、式秀部屋は出羽一門に
属する。

6.次の制度が開始された順に並べなさい。

A.不戦勝・不戦敗制度
B.取り直し制度
C.優勝決定戦制度
D.協会認定幕内優勝制度
E.系統別総当たり制

▼解答
D.協会認定幕内優勝制度
B.取り直し制度
A.不戦勝・不戦敗制度
E.系統別総当たり制
C.優勝決定戦制度

1925(大正14)年摂政宮殿下(後の昭和天皇)からの
下賜金によって天皇賜杯がつくられ、1926(大正15)
年から最高成績者に授与されるようになった。これを
機に優勝を協会が認定、表彰するようになった。最初の
優勝者は横綱常ノ花である。

優勝制度上解消しなければならない問題がいくつかでて
きた。預かり、引き分け、対戦相手が休場すると自分も
「や」扱いになる点である。取り直し制度はいつからでき
たのか。星取り表上預かり、無勝負がなくなったのは
1925(大正15)年一月場所だ。しかし、制度として正式に
決めたのは11月である。取り直しは現在のようにすぐ
取り直さず、別の日に再戦したりした。

不戦勝制度は1927(昭和2)年関西でおこなわれた十月
場所から正式に適用された。それ以前には熱戦後取り直し
で一方が疲労が激しく棄権したため不戦勝になったことが
あったりした。不戦勝の制度が徹底していなかったため、
不戦勝は正規の勝ち星より劣るといった考えが一人歩き
した。そのため、1928(昭和3)年3月正式に不戦勝
不戦敗制度が確立して、これ以降不戦勝の力士は土俵で
勝ち名乗りを受けるようになった。

これまでの優勝はすべて東西制によるものだがある事件が
歴史を変えた。1932(昭和7)年春秋園事件で多くの
脱退力士により一月場所の番付を編成し直し、二月に
興行をおこなった。このとき系統別総当り制を導入した。
8年間続いたが、出羽海系が幕内の半数近くを占め、
1940(昭和15)年東西制に戻ってしまった。

これまで最高成績が同じ場合、番付上位力士が優勝者
だった。戦後の混乱期、なんとか相撲人気アップを図ろう
と協会と記者クラブが協力して考え出したのが優勝決定戦
制度だった。同成績なら番外として対戦するのだから力士、
ファンに歓迎された。1947(昭和22)年六月場所から
施行された。

7.双葉山の69連勝はあまりにも有名だが、双葉山には
もうひとつ36連勝がある。この記録は誰によってストップ
されたでしょう。
双葉
<双葉山>
 
;
▼解答
松ノ里
出羽海部屋で最高位前頭3枚目

69連勝から7場所後(年2場所の時代)の1932(昭和17)
年夏場所千秋楽から1943(昭和19)年春場所の6日目
松ノ里に敗れて36連勝でストップした。なお、この期間、
取組は東西制だった。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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