九月場所を最も面白くした力士逸ノ城、横綱2人、大関
2人と対戦しての13勝2敗は新入幕力士としては最高の
成績といっても過言ではない。平幕中位以下でも好成績
者は横綱・大関と対戦させる制度は1971(昭和46)年七月
場所からである。それ以前は一部例外を除いて対戦は
なかった。それゆえ逸ノ城は史上最高の新入幕力士と
いっても過言ではない。これまで、どんなスーパー新入幕
力士がいたか振り返ってみよう。
横綱が実質地位化したのは1903(明治36)年常陸山、
梅ヶ谷が同日横綱になったときである。1904(明治37)年
春場所(1月)の番付で大砲は張出にまわった。その1年
半後入幕したのが若左倉であった。
1905(明治38)年夏場所(5月)入幕
前頭11 若左倉 6勝2敗1預 3日目横綱大砲に勝利
若左倉は3日目横綱大砲と対戦した。当時は東方は西方と
西方は東方としか対戦しなかった。若左倉の上位に全休が
2人いたとはいえ、9日制だから通常あたるはずがない
地位であった。今まで東方であった大関荒岩がこの場所から
西方にまわったが、横綱大砲対大関荒岩戦は実現していない。
ともかく新入幕若左倉対横綱大砲戦は実現した。この取組
を酒井忠正著の日本相撲史中巻(日本相撲協会発行、
ベースボール・マガジン社発刊)から見てみよう
大小の取合わせで非常に見ものであった。若左倉は大砲の
懐にとび込み、ついに押切って若左倉の勝となった。
新入幕力士が横綱に勝った驚きは微塵もない。この当時は
横綱が新入幕と対戦することはよくあったが、新入幕力士
は引き分けはあってもことごとく負けている。若左倉は
新入幕力士の横綱戦勝利の先陣をきったが、自身は最高位
が前頭2枚目であった。しかも1908(明治41)年春場所限り
で廃業した。幕内6場所(3年)という短さであった。
1914(大正3)年夏場所入幕
前頭14 両国勇治郎 8勝1休 優勝
逸ノ城が優勝したら100年ぶりの新入幕優勝と騒がれたが
100年前に新入幕優勝をしたのが両国勇治郎である。成績の
1休は不戦勝制度がなく、対戦相手が休場すれば、自身も
休み扱いになるためである。優勝といっても2つの注が
つく。
1つは優勝制度である。優勝制度の始まりは1909(明治
42)年両国国技館開設を記念して時事新報社が幕内
最高成績者の優勝額を国技館に掲示したことによるもの
である。いわば新聞社設定の優勝制度である。協会が
42)年両国国技館開設を記念して時事新報社が幕内
最高成績者の優勝額を国技館に掲示したことによるもの
である。いわば新聞社設定の優勝制度である。協会が
個人優勝制度を設定したのは1926(大正15)年からで
ある。賜杯を渡すようになったのはこのときである。
ある。賜杯を渡すようになったのはこのときである。
もう1つは対戦相手の問題である。両国は東方だが西方の
横綱太刀山、大関鳳との対戦はない。というより対戦させる
規定もない。だから単なる数字の比較だけで幕内最高成績
者が決まり、本当に優れた勝利とはいえなかった。詳しく
は2014年4月30日から始まる「平幕優勝を検証する」の
1から6までをご覧いただきたい。
両国は最高位関脇で、比較的幕内上位で活躍した。櫓投げ
など派手な技が多かった。男前で女性ファンが多く、
きれいどころにもてた。師匠は先代両国の入間川だが、
常陸山の出羽ノ海が1922(大正11)年6月に亡くなると、
出羽ノ海を継いだ、このとき「ノ」の字をなくし出羽海と
した。両国は1924(大正13)年春場所限りで引退した。
引退後は武隈を襲名し、年寄として手腕を発揮した。
しかし、先代両国の出羽海になって分家独立は禁止の
不文律がある中、武隈は1938(昭和13)年破門独立した。
千代の山の九重以前にも破門独立があったのである。
武隈の両国は弟子に恵まれずに一度部屋をたたんで
再興したものの最終的には1954(昭和29)年閉鎖した。
新入幕優勝者は最後は寂しい晩年を過ごした。
再興したものの最終的には1954(昭和29)年閉鎖した。
新入幕優勝者は最後は寂しい晩年を過ごした。