1975(昭和50)年の七月場所は大波乱の場所となった。
横綱輪島は全休、大関貴ノ花は3連敗して休場。大相撲の
看板がそろって休場したのである。横綱北の湖は前半で
3敗して9勝6敗、大関魁傑は8勝7敗と上位陣は総崩れ
となった。
3敗して9勝6敗、大関魁傑は8勝7敗と上位陣は総崩れ
となった。
そんな中あれよ、あれよと抜け出して13勝2敗で優勝
したのが前頭筆頭の金剛(二所ノ関部屋)だった。同じく
二所ノ関部屋の前頭5枚目の青葉城が12勝3敗、さらに
十両優勝は二所ノ関部屋の天竜と大健闘。七月場所を
支えたのは名門二所ノ関部屋の力士達であった。
一方、二所ノ関部屋の後継者はいっこうに決まらなかった。
先代の二所ノ関(元佐賀ノ花)の未亡人の頭に大麒麟の
押尾川の線は完全になくなっていた。ここへ思いがけない
金剛の優勝。未亡人は次女と金剛を婚約させ、二所ノ関
部屋の後継者を金剛に引退後託すことにしたのである。
<当時の記事>
これでは押尾川の立場はない。このままではやがて後輩
金剛の下で部屋付き親方で過ごすという屈辱的な図式に
なる。以前、押尾川が二所ノ関部屋を継いだら、自分に
押尾川の年寄名跡を継がせてほしいとまで言っていたと
伝えられる金剛が一転して名門部屋の師匠になる道を
選んだのである。
九月場所(14日初日)前の4日、押尾川は協会(理事長
春日野=元栃錦)に押尾川部屋認可の嘆願書を提出。
青葉城、天竜ら16力士を連れて谷中の瑞輪寺(ずいりんじ)
に立てこもった。花籠(元大ノ海)が調停に乗り出し
「押尾川くんの独立を認めてくれ」と暫定二所ノ関(元
十勝岩)に話し、暫定二所ノ関も独立は認めざるをえない
ものの問題は移籍人数であった。
暫定師匠の期間や権限はどう規定されているのか。また、
花籠の調停に対し自分の意見を言ったのか、未亡人の
メッセージを伝えたのか。この際暫定師匠をきちんと規定
しないと今後同様のケースが発生した場合、歴史は繰り
返されることになる。
瑞輪寺にたてこもった力士は、九月場所はいったん部屋に
戻るカタチをとり、その後、青葉城を含む6人の移籍で
決着した。従って青葉城対金剛戦は十一月場所から実現
した。
もつれにもつれた二所ノ関部屋の後継者問題はこれだけで
すまなかった。翌年の1976(昭和51)年5月金剛と次女は
結婚式をあげた。しかし、次女は金剛の元を離れて別の方
と生活するようになった。婚約だけで籍は入れていな
かったのか、離婚したのかはプライベートな部分なので
触れない。後に金剛はよく関係者からお子さんはまだ
ですかと聞かれ返答に窮した。結局、金剛は未亡人の
養子という形をとった。
この年の九月場所前、金剛は引退し、正式に二所ノ関部屋
を継いだ。まだ27歳だった。九月場所後、押尾川について
いったが、裁定で二所ノ関部屋へ戻された天竜が廃業した。
馬場を頼って全日本プロレスに入門した。
欲望、分裂、怨恨、犠牲を生み出した二所ノ関部屋の後継
者騒動は金剛が継いでから36年後、部屋は消滅した。
元金剛の二所ノ関が自ら終止符をうった。かつては100人
以上の弟子がいた時期があった二所ノ関部屋は最後は5本の
指で数えるほどしかいなかった。