大相撲

二所ノ関の系統7

2014年9月12日

1975(昭和50)年の七月場所は大波乱の場所となった。
横綱輪島は全休、大関貴ノ花は3連敗して休場。大相撲の
看板がそろって休場したのである。横綱北の湖は前半で
3敗して9勝6敗、大関魁傑は8勝7敗と上位陣は総崩れ
となった。

そんな中あれよ、あれよと抜け出して13勝2敗で優勝
したのが前頭筆頭の金剛(二所ノ関部屋)だった。同じく
二所ノ関部屋の前頭5枚目の青葉城が12勝3敗、さらに
十両優勝は二所ノ関部屋の天竜と大健闘。七月場所を
支えたのは名門二所ノ関部屋の力士達であった。

一方、二所ノ関部屋の後継者はいっこうに決まらなかった。
先代の二所ノ関(元佐賀ノ花)の未亡人の頭に大麒麟の
押尾川の線は完全になくなっていた。ここへ思いがけない
金剛の優勝。未亡人は次女と金剛を婚約させ、二所ノ関
部屋の後継者を金剛に引退後託すことにしたのである。
金剛優勝
<当時の記事>
 
これでは押尾川の立場はない。このままではやがて後輩
金剛の下で部屋付き親方で過ごすという屈辱的な図式に
なる。以前、押尾川が二所ノ関部屋を継いだら、自分に
押尾川の年寄名跡を継がせてほしいとまで言っていたと
伝えられる金剛が一転して名門部屋の師匠になる道を
選んだのである。

九月場所(14日初日)前の4日、押尾川は協会(理事長
春日野=元栃錦)に押尾川部屋認可の嘆願書を提出。
青葉城、天竜ら16力士を連れて谷中の瑞輪寺(ずいりんじ)
に立てこもった。花籠(元大ノ海)が調停に乗り出し
「押尾川くんの独立を認めてくれ」と暫定二所ノ関(元
十勝岩)に話し、暫定二所ノ関も独立は認めざるをえない
ものの問題は移籍人数であった。

暫定師匠の期間や権限はどう規定されているのか。また、
花籠の調停に対し自分の意見を言ったのか、未亡人の
メッセージを伝えたのか。この際暫定師匠をきちんと規定
しないと今後同様のケースが発生した場合、歴史は繰り
返されることになる。

瑞輪寺にたてこもった力士は、九月場所はいったん部屋に
戻るカタチをとり、その後、青葉城を含む6人の移籍で
決着した。従って青葉城対金剛戦は十一月場所から実現
した。
青葉城
<昭和50年12月の記事>
 
もつれにもつれた二所ノ関部屋の後継者問題はこれだけで
すまなかった。翌年の1976(昭和51)年5月金剛と次女は
結婚式をあげた。しかし、次女は金剛の元を離れて別の方
と生活するようになった。婚約だけで籍は入れていな
かったのか、離婚したのかはプライベートな部分なので
触れない。後に金剛はよく関係者からお子さんはまだ
ですかと聞かれ返答に窮した。結局、金剛は未亡人の
養子という形をとった。

この年の九月場所前、金剛は引退し、正式に二所ノ関部屋
を継いだ。まだ27歳だった。九月場所後、押尾川について
いったが、裁定で二所ノ関部屋へ戻された天竜が廃業した。
馬場を頼って全日本プロレスに入門した。

欲望、分裂、怨恨、犠牲を生み出した二所ノ関部屋の後継
者騒動は金剛が継いでから36年後、部屋は消滅した。
元金剛の二所ノ関が自ら終止符をうった。かつては100人
以上の弟子がいた時期があった二所ノ関部屋は最後は5本の
指で数えるほどしかいなかった。
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denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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