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二所ノ関の系統6

1975(昭和50)年3月28日、佐賀ノ花の二所ノ関が急性
白血病で亡くなった。まだ57歳だった。敷地475.2平方
メートル、建物1650平方メートルの鉄筋4階建という
莫大な遺産を残しての死去だった。敷地は借地だが、
借地権はついてまわる。
師匠のいない弟子は本場所の土俵にあがれない。そのため、
本家二所ノ関の後継者を決めなければならなかった。
分家していた大鵬がまず、名乗りでた。大鵬としては
一代年寄を贈られていだが、本家の窮地に一代年寄を
返上してもという思いだった。
後継者候補はもう一人いた。大鵬の弟弟子で元大関大麒麟
の押尾川親方である。1974(昭和49)年十一月場所限りで
引退していた。大鵬が分家独立後は部屋頭として稽古を
つけてきただけに大鵬の二所ノ関後継宣言には「一度を
部屋を出た者が何をいう」と反発していた。
大鵬は通夜に後継者を口にするなどタイミングが悪すぎた。
大鵬と押尾川は後継を争ったことで、それ以来口をきか
ない仲になったという。4月16日、大鵬は一転して「一門
の結束を乱してまで後継者になるつもりはない」と辞退
することになった。
こうして二所ノ関部屋の後継は押尾川と遺族側との譲渡
条件が話し合われることになった、ところが、話し合いは
いっこうにらちがあかない。遺族側は土地・建物以外に
年寄株・組織された後援会などを含めめて3億8000万を
提示したという。この当時の大卒の初任給が9万1000円
くらいの時代の額である。両者の金額の開きは一説に
よると8000万円とも1億円ともいわれた。
押尾川
<当時の記事>
 
決定するまで部屋の長老の元十勝岩の湊川が暫定的に
二所ノ関を継ぐことになった。8月16日の二所ノ関の
分家独立図の佐賀ノ花の二所ノ関から点線で十勝岩の
二所ノ関にいたっているのは暫定という意味を含んでいる。
暫定だから部屋や年寄株を購入することはない。何より
十勝岩の奥さんが部屋のおかみさんとして二所ノ関部屋に
はいらなければならないが、そうならなかった。
押尾川と遺族側の未亡人の話はいつまでたってもまとまら
なかった。十勝岩の暫定に所ノ関は五月場所だけでなく、
七月場所まで持ち越した。二所ノ関の後継候補は押尾川
しかいない。しかし、未亡人の心は「押尾川には継いで
ほしくない」と思うようになっていた。
二所ノ関後継をめぐる混乱はまだまだこれからが本番
だった。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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