大相撲

二所ノ関の系統6

2014年9月8日

1975(昭和50)年3月28日、佐賀ノ花の二所ノ関が急性
白血病で亡くなった。まだ57歳だった。敷地475.2平方
メートル、建物1650平方メートルの鉄筋4階建という
莫大な遺産を残しての死去だった。敷地は借地だが、
借地権はついてまわる。

師匠のいない弟子は本場所の土俵にあがれない。そのため、
本家二所ノ関の後継者を決めなければならなかった。
分家していた大鵬がまず、名乗りでた。大鵬としては
一代年寄を贈られていだが、本家の窮地に一代年寄を
返上してもという思いだった。

後継者候補はもう一人いた。大鵬の弟弟子で元大関大麒麟
の押尾川親方である。1974(昭和49)年十一月場所限りで
引退していた。大鵬が分家独立後は部屋頭として稽古を
つけてきただけに大鵬の二所ノ関後継宣言には「一度を
部屋を出た者が何をいう」と反発していた。

大鵬は通夜に後継者を口にするなどタイミングが悪すぎた。
大鵬と押尾川は後継を争ったことで、それ以来口をきか
ない仲になったという。4月16日、大鵬は一転して「一門
の結束を乱してまで後継者になるつもりはない」と辞退
することになった。

こうして二所ノ関部屋の後継は押尾川と遺族側との譲渡
条件が話し合われることになった、ところが、話し合いは
いっこうにらちがあかない。遺族側は土地・建物以外に
年寄株・組織された後援会などを含めめて3億8000万を
提示したという。この当時の大卒の初任給が9万1000円
くらいの時代の額である。両者の金額の開きは一説に
よると8000万円とも1億円ともいわれた。
押尾川
<当時の記事>
 
決定するまで部屋の長老の元十勝岩の湊川が暫定的に
二所ノ関を継ぐことになった。8月16日の二所ノ関の
分家独立図の佐賀ノ花の二所ノ関から点線で十勝岩の
二所ノ関にいたっているのは暫定という意味を含んでいる。
暫定だから部屋や年寄株を購入することはない。何より
十勝岩の奥さんが部屋のおかみさんとして二所ノ関部屋に
はいらなければならないが、そうならなかった。

押尾川と遺族側の未亡人の話はいつまでたってもまとまら
なかった。十勝岩の暫定に所ノ関は五月場所だけでなく、
七月場所まで持ち越した。二所ノ関の後継候補は押尾川
しかいない。しかし、未亡人の心は「押尾川には継いで
ほしくない」と思うようになっていた。

二所ノ関後継をめぐる混乱はまだまだこれからが本番
だった。

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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