武蔵山は横綱になったものの休場が多く、フル出場はわずか1場所
だけだった。それも7勝6敗だった。昭和14年夏場所限りの引退後
は年寄出来山→不知火となった。だが昭和20年11月、途中で離職し
た。農機具販売業を営み、さらに鶏肉店とパチンコ店を経営したが
いずれも失敗した。最後アパート経営で暮らした。

男女ノ川は、休場は少ないが相撲にムラがあった。1メートル91セ
ンチの体格をいかせず、大成しなかった。大関・横綱で優勝はなか
った。ダットサンや自転車で場所入りするなど奇行が目立った。奇
行は引退後も続いた。
引退は昭和17年だった。男女ノ川は年寄男女ノ川として一時協会に
いた。しかし、昭和20年協会を離れると転職人生となった。実に様
々な職を転々とした。衆議院選挙の立候補(落選)、社会保険の外
交員、私立探偵などを転々とした。下足番までして寂しい生活だっ
た。

安藝ノ海は双葉山の連勝を69でストップする歴史的大殊勲をあげた。
双葉山の連勝を止めた者が番付を上下させてはいけない、と奮闘し
横綱にまで上り詰めた。相撲巧者で頭をつけ、左差し右おっつけで
スピードのある相撲を取った。
安藝ノ海は引退後不知火→藤島を襲名した。理事も務めた。ちゃん
こ安藝を経営していたが、キャバレーにまで手を広げた。その結果
出羽海(元横綱常ノ花)の怒りをかった。昭和30年1月で協会を離
職した。常ノ花の娘とも離婚した。杉山桂四郎記者はよく安藝ノ海
に話を聞きにいった。
