昭和47年最初の4場所は大混乱の場所だった。
一人横綱北の富士が乱調、4大関はたよりに
ならない存在だった。そのため、誰が優勝
するのかまるでわからなかった。その年は
小結から関脇さらに大関に昇進した輪島が
年間最多勝となった。それでも成績は63勝と
低レベルだった。
将来は魁傑、貴ノ花、輪島の魁貴輪(かいき
りん)で優勝をたらいまわしにするのでは
という見方がでてきていた。ところが輪島と
差がついてしまった。輪島の横綱は時間の
問題だった。安定感、うまさと強さ、大胆な
なかに緻密さがあり、攻撃から防御、防御
から攻撃とリズムがあった。大関を4場所で
通過した。昭和48年は輪島の独壇場であった。
77勝12敗1休で年間最多勝力士となった。
休場がありながらの優勝は輪島が初であった。
のちに千代の富士が千秋楽休場して不戦敗で
優勝している。
昭和49年一月場所、怪童北の湖があれよあれ
よという間に優勝してしまった。勢いにのる
北の湖は大関、横綱をあっという間に手中に
してしまった。ただ、昭和49年の北の湖は
輪島にはなかなか勝ちにくくなっていた。
本割り・優勝決定戦で輪島に逆転優勝された
ことがあった。それでも年間最多勝は北の湖
が初めて手中にした。それは翌年の昭和50年
も変わらなかった。北の湖が連続最多勝と
なった。
昭和51年は輪島が年間最多勝を奪還した。
自分の存在感をしめした。これが輪島最後の
年間最多勝であった。ただ、年間70勝以上は
翌年も達成した。輪湖時代と呼ばれたのは
昭和51年1月から昭和52年11月までである。
全盛期にズレがあり、時代はやがて北の湖へ
と移っていった。
それは年間最多勝にも表れていった。北の湖
の独占となっていった。昭和52年から5年
連続年間最多勝を手にした。そのうち80勝
以上が2回あるのだから、にくらしいほど
強かったときである。若くして強くなければ
できない記録である。通算7回の年間最多勝
は大鵬の6回を超える新記録となった。
なかなか涼しくなりません。
興味深いテーマをこれからもお届けします。