学生出身の大相撲入りは頻繁で現在も多く
を占めている。だが、横綱となると輪島しか
いない。その学生出身唯一の横綱であった
輪島が亡くなられた。まだ70歳であった。
だが、咽頭がんという大病を患っていたため、
体力的には弱っていたように映った。8日
ソファで息を引き取ったとのことである。
最近は消息をほとんど聞くことがなかった。
入りした。そのデビューは鮮烈であった。
いきなり幕下優勝した。ところが、輪島に
対する評価は必ずしも高くなかった。輪島の
先人で学生出身というと豊山(前名内田)が
いた。豊山(前名内田)に比べると胸がうす
く、相撲が小さかったからである。ところが
翌場所も全勝優勝して十両昇進を決定すると
「これはちょっと違うぞ」と周囲は見るよう
になった。
<ザンバラ時代の輪島>
幕内、三役、大関の出世は豊山(前名内田)
が上だった。輪島の相撲は相変わらず頭を
つける、下手の技など小さいままであったが、
そのまま強くなった。双葉山に傾倒し、相撲
を見る基準を双葉山においた故小坂秀二氏は
「輪島は勝負がうまい」と評した。相撲が
うまいとか勝負強いとは違うのである。いか
にも勝ちにもっていく過程がうまいというの
である。これには否定的な意味が含まれて
いた。
大関に昇進してから輪島の相撲に安定度が
増した。横綱は時間の問題だった。横綱を
かける場所で輪島は独走して15戦全勝優勝
して横綱を決めた。相撲の天才児は、ついに
横綱を極めたのである。
横綱審議委員の石井光次郎氏は「輪島はマシ
ーンのような強さ」と言っている。神風氏は
「羽黒山の堅実さ、強さと安芸ノ海のうまさ
をあわせたのが、輪島の相撲」と語る。玉の
海氏は「すり足、顎があがらない、腰を落と
して攻める。大胆な中に緻密さがある」と
賞賛する。大鵬は「攻撃から防御、防御から
攻撃と相撲にリズムがある。輪島の強さの
一番のポイントは腰の中心点に寸分のくるい
もないということだ。投げを打つときの体の
開きは天才的」と絶賛である。
輪島が最も強かったのは、横綱2場所目、
3場所目であると筆者はみている。2場所目
全勝優勝、3場所目も初日から連戦連勝。
このときの輪島の相撲は負ける気がまるで
しなかった。12日目貴ノ花との一番で指の間
を裂傷しなければ、連勝はどこまで続いたか、
を裂傷しなければ、連勝はどこまで続いたか、
わからなかった。そう思わせるほどの安定感、
抜群の強さであった。
北の湖との死闘はこの後であった。千秋楽
本割、優勝決定戦で左前褌、右おっつけから
下手投げで北の湖を倒したのは語り草になっ
ている。千秋楽同一相手に本割、優勝決定戦
での逆転優勝は初代若乃花、大鵬についで
当時3人目であった。相撲アニマル輪島なれ
ばこその達成であった。
での逆転優勝は初代若乃花、大鵬についで
当時3人目であった。相撲アニマル輪島なれ
ばこその達成であった。
私生活では一流好みであった。高級車で場所
入りし、つき合う人間も一流であった。地方
場所では部屋ではなく、ホテルに泊まって
いた。輪島は優勝14回している。これは当時
栃錦、若乃花、北の富士の10回を超え、大鵬
についで2位の優勝回数であった。
引退後の輪島はスキャンダルの連続だった。
師匠の娘と結婚し、花籠部屋の後継者となっ
た。だが、家庭内がうまくいかず、嫁が自殺
未遂をおこし、協会を唖然とさせた。部屋
には住まず、近くのマンションから部屋に
通うありさまだった。
だが決定的だったのが、年寄名跡を借金の
担保にしたことである。身内の事業失敗の
ため、借金を申し込んださい花籠の株を提供
したのである。そのため、協会を追われる
ことになり、部屋の力士は元魁傑の放駒部屋
へ移ることになった。その後プロレス入り
したが、長く続かなかった。
栄光に彩られ、波乱人生となった輪島。だが、
輪島の名は学生出身初の横綱とともに唯一の
本名横綱として永遠に残ることになった。
輪島のサイン会の思い出。規定数が済んでも
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