昭和14年春場所4日目は安芸ノ海の運命を
変えた日だった。双葉山の連勝を69でストッ
プした日である。安芸ノ海は英雄であった。
誰もが双葉山の牙城に挑み、誰もがはね返さ
れていた。双葉山が負けることはおよそ考え
られなかった。安芸ノ海は一番相撲に強く、
スピードとセンスがあるが、非力であった。
だが、「双葉山を倒した自分が並みの力士で
あってはならない」。この思いが安芸ノ海を
横綱にまで押し上げた。
照国はわずか大関2場所で横綱に昇進した。
特に優勝があるわけではない。ただし、その
2場所前の関脇で12勝3敗、13勝2敗と好成
績を引き継いでいた。23歳4ヶ月での横綱
昇進は当時の最年少記録であった。身長は
175センチながら、体重は160キロと丸々と
した体型であった。それでいてリズミカルな
相撲を取った。白い体が赤くなるところから
「桜色の音楽」といわれた。双葉山には3勝
2敗と、晩年があるとはいえ勝ち越している。
前田山は9年も大関にいた。新大関は昭和
13年夏場所である。清水川が引退し、大関は
鏡岩一人ということもあって、新小結からの
大関昇進であった。その前田山が張り手を
まじえた突っ張りで張り手旋風をおこした
のが、昭和16年春場所である。この戦法で
横綱双葉山、大関羽黒を倒してしまった。
双葉山、羽黒山はともに14勝1敗の成績だか
ら、唯一の黒星を前田山につけられたわけだ。
横綱に昇進したのは33歳のときである。功労
的横綱であり、横綱に昇進してからは、勝ち
星より負け数が多かった。最後は休場中に
野球観戦に行き、クビをきられたカタチに
なった。
東富士は将来有望視される逸材だった。双葉
山は「キン坊」といってかわいがった。昭和
19年秋場所、東富士が関脇のとき双葉山を
上手投げでやぶって「覇者交代」の一番と
いわれた。戦後3年たった昭和23年夏場所、
大関で初優勝。翌場所は優勝決定戦で増位山
に負けたものの優勝同点で横綱に昇進した。
怒涛の寄り身で優勝を重ねていくが、連覇と
全勝優勝がなかったのは、物足りなかった。
(この項目終わり
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