主を失った九重部屋は寂しい。後継者は元千
代大海だが、どういう形で引き継ぐのか。名
跡と弟子だけの場合がある。部屋ごと継ぐ場
合もあるが、部屋は賃貸の場合がある。
千代の富士が、横綱として活躍していた頃の
師匠は、今NHKで解説をしている北の富士
であった。その頃のイメージが強く残ってい
るが、入門は違った。千代の富士の入門は、
昭和45年元千代の山の九重部屋である。千代
の山の故郷北海道松前郡福島町から、九重が
「飛行機に乗せてやるから東京へ行ってみな
いか」と秋元少年を誘い、部屋へ連れてきた
のである。
九重(元千代の山)が部屋をもっていなかっ
たら、千代の山の同郷でなかったなら、千代
の富士は違った道を歩んでいたかもしれない。
というのも九重部屋はすんなり誕生したわけ
ではなかった。そこには、苦渋の決断と波乱
に満ちたものであった。
ではなかった。そこには、苦渋の決断と波乱
に満ちたものであった。
千代の山は出羽海部屋の出身である。今の相
撲ファンはピンと来ないかもしれないが、出
羽海部屋は分家独立を許さずという不文律が、
長い間あった。誰も覆すことのできない鉄の
掟が支配していた。
<武蔵川(元出羽ノ花)>
出羽海の後継者争いは、元常ノ花の出羽海が
亡くなった後におきた。元常ノ花の意志は千代
の山だが、遺書があるわけではなかった。候
補は元出羽ノ花の武蔵川と元千代の山の九重
であった。結果は年長である武蔵川の支持が
多く、決定した。九重は次という思いがあっ
たが、それを打ち砕く事態が発生した。横綱
佐田の山が元出羽ノ花の市川家に婿入りし、
部屋の名義が佐田の山にかわっていたのだ。
ことここにいたって九重は北の富士らを連れ
て、独立せざるを得なかった。分家独立を許
さずという不文律があったため、破門という
時代錯誤な処置となった。
元前田山の高砂が一門に加えた。その理由を
昔出羽海と高砂はつながっていた。といって
いたが、そんな事実はなかった。当時は本当
に信じていた。余談だが、井筒部屋は高砂部
屋の分家であった。このことはいずれ機会を
みて、執筆する予定である。
千代の富士が出羽海をルーツにしていたら、
理事になり続け、理事長の可能性があったか
もしれない。だが、千代の富士のルーツは九
重部屋であり、それは歴史に翻弄された運命
があった。その九重部屋も千代の山から数え
て4代目を迎えようとしている。
連絡の途絶えた友人あり。
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よしなに
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