横綱が実質上地位化したのは、明治の常陸山
以降である。この時代、取組は東西別、国技
館の開設とともに東西で団体優勝を争う東西
制である。同じ方屋同士は対戦しなかった。
勝った方屋が次の場所東にまわる。だから同
じ地位なら東が上とは必ずしもいえなかった。
優勝は国技館開設とともに、幕内最高成績者
の額を国技館に掲げる時事新報社設定でスタ
ートした。あくまで協会ではなく一新聞社の
表彰である。そのため、制度上改善の余地が
大有りだった。引き分け、預かり、対戦相手が
休むと自分も「や」にされるなど不合理な面を
残したままだった。
休むと自分も「や」にされるなど不合理な面を
残したままだった。
以上のことを頭において、明治・大正期の東
京横綱の通信簿をみていこう。
黄:勝率8割5分以上 優勝次点率4割以上 休場率13%以下
紫:勝率7割5分未満 優勝次点率2割8分未満 休場李35%以上
ていただきたい、現役は発表時点での数字で
ある。
なお、引き分け、預かりは0.5勝0.5敗として
勝率を計算している。引き分けを除外して計
算している場合があるが、1勝14引き分けが
勝率10割で、14勝1敗より上といのはどう考
えても不合理である。14番勝つほうがはるか
に難しく、価値があるのは当然である。
明治・大正期は年2場所ながら休場が多い。
常陸山、鳳、西ノ海(2代目・3代目)は勝利
数より休場数のほうが多いのだからあきれ
数より休場数のほうが多いのだからあきれ
る。2代目梅ヶ谷にしても横綱勝利数90に対
し休場は86と異常接近している。
勝率9割超え、5連覇、優勝次点率は8割超
え、休場率6%と抜群の好成績を残したのが、
栃木山である。栃木山は3連覇したあと引退
したので、晩年の不成績がないのが大きい。
この時代を代表する横綱として太刀山があげ
られる。5連覇、勝率9割超えだが、休場が
多いのがマイナス点である。
横綱不合格は誰の目にも明らかである。鳳、
2人の西ノ海、宮城山である。優勝次点率の
数値が悪すぎるのは、トップに立てない証明
である。なお、宮城山は大阪横綱だが、数字
は東西合併後のものである。厳密には昭和の
成績なのだが、横綱になったのが、大正のた
めここに分類した。大阪横綱は、東京相撲の
小結程度で、東西制で勝率5割台はいいわけ
できない。
引退相撲の商品入れとなった若の里手さ
げ袋は便利である。有効に活用している。
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よしなに
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