九州の本場所が近づいてきた。会場は地下鉄呉服町から
徒歩で13分くらいの福岡国際センターである。しかし、
最初から福岡国際センターだったわけではない。昭和初
期の福岡開催は別として、定期的に福岡で本場所が開催
されるようになったのは、昭和32年からである。
その年は神武景気で、洗濯機、テレビ、冷蔵庫の売れ行
きが伸びた年である。相撲界は自殺未遂した出羽海理事
長(元横綱常ノ花)に代わって時津風(元横綱双葉山)
が理事長に就任した年である。
が理事長に就任した年である。
九州本場所は他の本場所と違った興行になった。それは
会場である福岡スポーツセンターの買い興行というカタ
チでスタートしたのである。自主興行を目指す協会は、
昭和48年自主興行にした。その後も自主興行を主張する
協会と買い興行を主張する福岡スポーツセンターの話し
合いは、エスカレートして、完全に物別れに終わった。
そこで協会は翌年の昭和49年から会場を九電体育館に移
した。しかし、九電体育館は会場としては6050人収容で
あり、いかにもこぢんまりとしていた。
会場が九電体育館に決まる中、北九州市議会で九州本場
所の北九州市誘致案が提出されていた。政財界にも積極
的に働きかけ、可決する公算が大きかった。その場合の
会場は1万50人収容の北九州市総合体育館である。北九
州市が青少年のスポーツ高揚を目的として建てたもので
ある。総工費19億円(当時)で、冷暖房完備の豪華な施
設である。
<当時の新聞>
ここで、バレーボールや全日本プロレスが行われたが、
市の関係者は体育館にふさわしい目玉を必要としていた。
そんなおり、もちあがったのが、大相撲の誘致だった。
しかし、協会は時期尚早論だった。相撲興行の難しさは
簡単にクリアというわけにはいかなかった。交通の便が
どの駅からバスで10分、25分かかるという問題もあった。
協会は九電体育館の設営に1億8千万円かけただけでな
く、土俵の屋根を1千万円かけて新調した。(当時の価
格)観客の座布団も新調し、駐車場も300台使用に改善し
た。当時の九州本場所の担当は時津風理事(元大関豊山)
は9月中旬から福岡にのり込んで指揮をとった。時津風
理事はファンサービスに努め、新たな会場の不安を一蹴
しようと奮闘した。
こうして大相撲の九州本場所の北九州市移転は幻と消え
た。
た。
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