MENU

出羽海の系統13

部屋の年寄、関取の総意で新出羽海となった元出羽ノ花は
まず、斜陽の名門の建て直しに取り組まなければならな
かった。斜陽の原因は黙っていても弟子が集まるという
名門意識にあると新出羽海は分析。その間他の部屋は必死
で弟子集めに奔走していたというのである。協会運営と
師匠としての弟子育成の両立に関してはやりとげるしか
ないという決意をかみしめた。1960(昭和35)年十一月
場所時点で佐田の山はまだ十両であった。
海乃山
<海乃山のブロマイド>
 
BS放送の名勝負列伝で曲者海乃山がけたぐりで王者
大鵬をたおしたシーンを見た方がおられると思う。海乃山
は出羽海部屋の力士だが、ずっとそうだったわけではない。
最初は小野川(元錦華山)部屋であった。小野川部屋は
大阪から来た部屋だが、出羽一門に入っていた。その
系統は下図である。
小野川

小野川部屋は閉鎖と再開、復興と閉鎖を経て1965(昭和40)
年、出羽海部屋に併合された。実は小野川部屋の力士には
海乃山以前に信夫山がいた。双差し名人で技能派だった。
引退は1960(昭和35)年九月場所だった。年寄山響の
1961(昭和36)年独立を申し出るも脚下された。小野川は
出羽一門であるが、ルーツは大阪相撲で分家独立を許さず
という不文律が適用されるはずがないのだが、認められ
なかった。
信夫山 
<信夫山のメンコ>
 
元出羽ノ花が出羽海を襲名したとき、分家独立を許さず
という不文律に関しては次のような趣旨を語っている。
大きな幹がなければ枝も葉もりっぱに育たない。これは
先々代出羽海(元両国(前名国岩))のときみんなの総意
で決まった。これにこだわるつもりはないが、やはり
みんなが今まで通りでと言えばそうなる。つまり部屋の
方針は強制したものでなく、みんなの総意で決まる、と。
出羽海からの分家独立は相変わらず困難であった。だが
ある事件が独立への引金になった。

記事をお読みいただきありがとうございます
よければこちらをクリックいただけると幸いです。”土俵の目撃者”
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


相撲 ブログランキングへ 

にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村 

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑   

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

目次