部屋の年寄、関取の総意で新出羽海となった元出羽ノ花は
まず、斜陽の名門の建て直しに取り組まなければならな
かった。斜陽の原因は黙っていても弟子が集まるという
名門意識にあると新出羽海は分析。その間他の部屋は必死
で弟子集めに奔走していたというのである。協会運営と
師匠としての弟子育成の両立に関してはやりとげるしか
ないという決意をかみしめた。1960(昭和35)年十一月
場所時点で佐田の山はまだ十両であった。
<海乃山のブロマイド>
BS放送の名勝負列伝で曲者海乃山がけたぐりで王者
大鵬をたおしたシーンを見た方がおられると思う。海乃山
は出羽海部屋の力士だが、ずっとそうだったわけではない。
最初は小野川(元錦華山)部屋であった。小野川部屋は
大阪から来た部屋だが、出羽一門に入っていた。その
系統は下図である。
小野川部屋は閉鎖と再開、復興と閉鎖を経て1965(昭和40)
年、出羽海部屋に併合された。実は小野川部屋の力士には
海乃山以前に信夫山がいた。双差し名人で技能派だった。
引退は1960(昭和35)年九月場所だった。年寄山響の
1961(昭和36)年独立を申し出るも脚下された。小野川は
出羽一門であるが、ルーツは大阪相撲で分家独立を許さず
という不文律が適用されるはずがないのだが、認められ
なかった。
<信夫山のメンコ>
元出羽ノ花が出羽海を襲名したとき、分家独立を許さず
という不文律に関しては次のような趣旨を語っている。
大きな幹がなければ枝も葉もりっぱに育たない。これは
先々代出羽海(元両国(前名国岩))のときみんなの総意
で決まった。これにこだわるつもりはないが、やはり
みんなが今まで通りでと言えばそうなる。つまり部屋の
方針は強制したものでなく、みんなの総意で決まる、と。
出羽海からの分家独立は相変わらず困難であった。だが
ある事件が独立への引金になった。
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