大錦がいなくなった土俵で優勝は栃木山、常ノ花、栃木山
3連覇と出羽海勢が続いた。しかし、栃木山は3連覇後
事実上引退した。1926(大正15)年元栃木山の春日野部屋、
元大門岩の山分部屋がスタートした。しかし、分家独立は
ここまででこれ以上は認められなかった。
時代は昭和に入り、1927(昭和2)年大阪と東京の相撲
協会が合併した。新たな人事で元両国(前名国岩)の
出羽海は相談役であったが協会の重鎮であった。
この年の8月東京中央放送局が大日本角力協会に本場所の
ラジオ実況放送を申し入れてきた。しかし、ただでさえ
お客が入らないのに、放送されたらますます入らなくなる、
と協会の幹部の空気は否定的だった。
このとき出羽海は「いや、放送を聴けば少なからず、
興味をもって必ず本物を見たくなる。それでももしお客が
来ないときは大相撲が根本的に何かが欠けており、抜本的
な見直しが必要である」と周囲を説き伏せた。
1928(昭和3)年の春場所からラジオの実況放送が開始
された。出羽海の読みはあたり、大相撲は家庭の中に入り、
大衆のものへと広がりをみせた。すると大相撲への関心が
高まってお客さんが国技館へと観戦に来てくれるように
なったのである。この年の春場所後出羽海は総務取締と
なった。
ラジオ放送とともに2つの大きな変更が実施された。
1つは仕切り制限時間が設けられ、幕内10分、十両7分、
幕下以下5分となった。それまで仕切りは無制限であった
ため、打ち出しが午後9時ごろであったのが5時40分ごろ
に短縮になった。2つめは仕切り線の設置である。間隔を
60センチ(現在は70センチ)にとったので、頭と頭を突き
合わせる牛相撲の如き立ち合いはなくなった。
幕下以下5分となった。それまで仕切りは無制限であった
ため、打ち出しが午後9時ごろであったのが5時40分ごろ
に短縮になった。2つめは仕切り線の設置である。間隔を
60センチ(現在は70センチ)にとったので、頭と頭を突き
合わせる牛相撲の如き立ち合いはなくなった。
元両国(前名国岩)の出羽海はかつての入間川部屋に
おいて先代綾川とその弟子を引き取り、昭和の初めには
元綾川の千賀ノ浦部屋、元岩木山の清見潟部屋、元柏山の
山科部屋、元伊勢ノ濱の中立部屋を併合してきた。出羽海
部屋は師匠が元両国(前名国岩)になっても一大勢力を
維持し、昭和6年には幕内の半分を出羽海部屋で占める
という快挙を達成している。
春場所
大関大ノ里・常陸岩、関脇天竜、小結武蔵山、前頭山錦・
信夫山・新海・和歌嶋・綾桜・玉碇・藤ノ里・常陸嶋・
肥州山・出羽ヶ嶽・伊勢ノ濱・外ヶ濱・駒錦・銚子灘・
大崎・常盤野
夏場所
十両落ちの駒錦に代わり高ノ花と大和錦が新入幕を果たして
出羽海の片番付独占は続いた。しかし、この状態は思いも
よらぬ形で一挙に瓦解することになった
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