輪島が最初に年間72勝以上をあげたのは昭和48年だった。大関から
横綱に昇進した年である。77勝12敗1休であった。全勝優勝が2回
ある。最初の全勝は五月場所で横綱昇進を決定的にした。横綱北の
富士・琴櫻はふるわなかた。
その前の4月に初の中国巡業があった。周恩来総理の招請により、
北京と上海で興行が行われた。これは国交回復後の民間親善使節と
しての側面があった。そのため五月場所はだしがら場所といわれた。
「だしがら場所とうどういう意味だね」と武蔵川(元出羽ノ花)理
事長は憤慨していた。

十一月場所、輪島は初日から12連勝した。だが12日目の貴ノ花戦で
手に裂傷をおった。13日目は出場したが、無理だった。14日目不戦
敗、千秋楽は休場となった。それでも優勝であった。休場しながら
優勝したのは史上初であった。
翌昭和49年は70勝20敗で終わった。それでも優勝は3回であった。
さらに昭和50年は3場所連続休場があり、ふるわない年であった。
昭和51年は77勝13敗と戻してきた。優勝は2回であった。北の湖が
台頭してきていた。翌昭和52年は75勝15敗をあげた。優勝は3回で
あった。通算では12回目の優勝であった。
輪島は年間72勝以上を3回達成した。それもすべて75勝以上という
ハイレベルであった。同じ学生出身横綱の大の里は現在47勝13敗で
ある。年間72勝以上を達成できるか。見ものである。