今は語られなくなったが、一時期春日野部屋は小兵名人を常に輩出
してきた。その一人が栃ノ海であった。うまさは栃錦以上といわれ
た。横綱になったが、椎間板ヘルニアの再発と右上腕膜筋肉断裂で
満足いく土俵が務められなくなった。昭和40年十一月場所から昭和
41年九月場所まで不戦敗を含め62休場している。翌場所引退してい
る。まだ28歳だった。
佐田の山の連続休場は3場所であった。昭和41年に不戦敗を含め、
27休場した。佐田の山は大関が長く、横綱在位は19場所だが、休場
はこの3場所のみであった。最後は連続優勝の翌場所引退した。思
いもよらず突然身を引いた。
北の富士は最後の10回目の優勝のあと8場所横綱を務めた。その間
の昭和48年九月場所から昭和49年七月場所まで不戦敗を含め、42休
場した。全休が2場所連続してあった。休場の翌場所引退した。
玉の海は現役で亡くなられたこともあって、横綱休場はゼロであっ
た。それだけではない。序ノ口以降1度も休場したことがなかった。
通算924連続出場、幕内735連続出場だった。生きていたらどこまで
記録を伸ばしただろうか。
琴櫻は短命横綱だった。横綱になったときすでに32歳だった。横綱
在位は8場所だった。それだけに休場は昭和49年の22休場に留まっ
ている。
(この項目続く)