プロレスの本を読んでいると、相撲につながる知ら
れざる面が多々ある。本は闘魂と王道というタイト
ルで副題として昭和プロレスの16年戦争としている。
著者は堀江ガンツ氏で株式会社ワニブックスより発
行された。592ページの分厚い本である。知られざ
る面は天龍に関してである。まず天龍が相撲界でど
ういう運命をたどったか振り返ってみたい。
事件の始まりは、昭和50年3月元佐賀ノ花の二所ノ
関が急性白血病で死去したことである。元大麒麟の
押尾川が後継候補として浮上した。押尾川と遺族側
との譲渡条件が話し合われたが、いっこうにらちが
あかなかった。遺族側は建物・年寄株・組織された
後援会などを含めて3億8000万を提示したという。
当時の大卒の初任給が9万1000円くらいの時代であ
る。両者の金額の開きは8000万円とも1億円ともい
われた。
決定するまで部屋の長老の元十勝岩の湊川が暫定的
に二所ノ関を継ぐことになった。元十勝岩の奥さん
が部屋のおかみさんとして部屋にいることはなかっ
た。押尾川と遺族側の未亡人の話はいつまでたって
もまとまらなかった。元十勝岩の暫定二所ノ関は五
月場所だけでなく、七月場所まで持ち越した。未亡
人の心は「押尾川には継いでほしくない」になって
いった。
そんな中七月場所、あれよ、あれよと抜け出して13
勝2敗で優勝したのが前頭筆頭の金剛(二所ノ関部
屋)だった。未亡人は次女と金剛を婚約させ、二所
ノ関部屋の後継者を金剛に引退後託すことにした。
これでは押尾川の立場はない。九月場所前の4日、
押尾川は協会に押尾川部屋認可の嘆願書を提出した。
青葉城、天龍ら16力士を連れて谷中の瑞輪寺(ずい
りんじ)に立てこもった。本家ニ所ノ関部屋が分裂
事件に陥った瞬間であった。
花籠(元大ノ海)が調停に乗り出し、押尾川の独立
は認められた。瑞輪寺にたてこもった力士は、九月
場所はいったん部屋に戻るカタチをとり、その後青
葉城を含む6人の移籍で決着した。
戻された天龍は針のむしろ状態だったと闘魂と王道
のプロレス単行本は記している。「『一度はニ所ノ
関部屋を捨てて揉め事を起こした天龍』ってことで
ずっと疎まれてね。俺が稽古しようと思ったら、金
剛に『はい、稽古終わり!土俵をきれいにしろ』
みたいなことを平気でやられたし、部屋の激励会に
俺だけ呼ばれないとか、そういう露骨な仕打ちを何
度もやられて、『俺はニ所ノ関部屋にいちゃいけな
い人間だな』って思わされたことはたしかです」
プロレス入りはかつての大鵬番記者の森岡氏と接点
が生まれたことによる。プロレス転向には反対が多
かったという。闘魂と王道のプロレス単行本にはこ
う書かれている。
「相撲は地域密着型だから、後援会からの反発はす
ごかったですね。親父も大反対で『お前が相撲を辞
めてプロレスにいったら、俺は恥ずかしくて外を歩
けない』って言われましたよ。田舎だからそういう
人付き合いあるし、急にプロレスに行くとなったら、
面目丸潰れってやつです。相撲の地域密着はありが
たいけど、その一方で大変なんですよ。俺としては
誠心誠意話したんだけど、結局、後援会の人たちは
『裏切りやがって!」って感じになってしまって。
それはもう疲れましたけど、吹っ切るしかなかった
です」
もつれにもつれた二所ノ関部屋の後継者問題はこれ
だけですまなかった。翌年の昭和51年5月金剛と次
女は結婚式をあげた。しかし、次女は金剛の元を離
れて別の方と籍を入れた。結曲、金剛は未亡人の養
子という形をとった。最終的に金剛は本家ニ所ノ関
部屋を滅ぼす役割を担った。