大相撲

10大横綱に迫った力士1

2023年7月30日

横綱が実質地位化したのは常陸山以降である。10大
横綱の横綱時代に最も迫った力士は誰か。調査して
みることにした。

■常陸山

常陸山は横綱在位22場所である。そのうち全休・途
中休場が13場所もある。横綱時代同じ相手に負けた
力士は2人しかいない。鳳と太刀山である。鳳には
2敗している。

常陸山に最も迫った力士は太刀山である。太刀山が
平幕のとき、関脇のとき横綱常陸山が勝利した。だ
がそれ以降は勝てなくなった。太刀山の関脇時代に
1敗、大関時代に2敗している。常陸山の横綱時代
は太刀山に2勝3敗3分けである。通算でも3勝3
敗3分けである。

<太刀山のブロマイド>

■太刀山

太刀山は横綱時代3回しか負けていない。西ノ海、
栃木山、大錦である。実はどれも歴史的一番である。

明治42年夏場所、両国国技館の開設とともに太刀山
の連勝は始まった。新大関のときである。当時は10
日制で引き分け、預かりがあった。これは厳密には
連勝でないが、取り直し制度がないため時代の限界
であった。これをはさんだ白星を連勝とした。

こうして迎えた明治45年春場所、太刀山は通算43連
勝に到達した。8日目、対戦相手は 大関2代目西ノ
海である。太刀山は西ノ海に敗れ、連勝は43でスト
ップした。

<2代目西ノ海のブロマイド>>

大正5年夏場所8日目(当時は10日制)、横綱太刀
山が5年ぶり黒星を小結栃木山からきっした日であ
った。よく太刀山の56連勝がストップしたというが、
その中には太刀山の都合による全休が3場所もある
のだ。自己都合の休場は連勝をストップさせるもの
である。栃木山が勝った瞬間、満場は潮の如くわき
立って、喝采はやむことはなかった。

<太刀山対栃木山戦を描いた絵を表紙にしたパンフレット>

千秋楽全勝決戦は優勝制度のない時代にすでにあっ
た。大正6年春場所太刀山対大関大錦である。千秋
楽、9勝同士で対戦することになった。太刀山誘う
ように立つと大錦は受けない、とみせていきなり立
つともろざし。太刀山たちまち土俵に詰まり、かか
えてこらえた。大錦腰を落とし、ぐいぐい寄り立て
寄り切った。

<大錦のブロマイド>

観衆はあまりの光景に総立ち。蜜柑が投げ込まれた
り、大錦に飛びついたりと国技館はこれ以上ない大
騒ぎとなった。全勝対決を制した大錦は横綱に昇進
した。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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