大相撲

大関誕生の間隔4

昭和28年から初、春、夏、秋の年4場所が始まった。
テレビの実験放送が2月に始まった。本放送は夏場
所からであった。といっても大卒の初任給が1万円
をきる時代に20万円のテレビは高価であった。前年
秋場所で関脇優勝した栃錦が初場所から大関として
登場した。吉葉山・鏡里の大関誕生から4場所あけ
ての新大関となった。

<栃錦のブロマイド>

同じ昭和28年秋場所三根山が大関として登場した。
持病が多く修行僧以上の禁欲生活といわれた。大関
から降格してもわるびれることなく相撲を取った。

その2年後の昭和30年秋場所、大内山が大関として
スタートした。2メートルを超える超大型力士。栃
錦対新大関大内山戦でいまだに語られる死闘がある。
昭和30年夏場所、横綱栃錦は13勝1敗で優勝を決め
て千秋楽の大内山戦に臨んだ。新大関大内山は9勝
5敗と2ケタ勝利をかける。

<大内山のブロマイド>

立ち上がるや大内山はヤツデのような大きな手で突
っ張る。栃錦の顔面に何発も入る。栃錦の顔がみる
みる紅潮していく。栃錦よく耐えて、一度は組み止
めるも再び離れて、大内山の強烈な突っ張りが炸裂
する。危うい栃錦、大内山の首に飛びつき、あざや
かな首投げ一閃。大激闘に終止符をうった。

大内山から1場所あけて松登でと若ノ花が同日大関
になった。若ノ花は10勝4敗1分-8勝7敗-10勝
4敗1分で本人は、大関はない、と思っていた。温
泉にでもいこうと考えていた。ところが横綱千代の
山との17分に及ぶ死闘の引き分けが評価され、大関
昇進がかなった。

<若乃花のブロマイド>

戦後昭和の大関登場をまとめると以下になる。

昭和20年 ×〇 東
藤和21年 ×中止〇
昭和22年 ×汐 〇
昭和23年 ×〇 〇
昭和24年 増〇 千
昭和25年 〇〇 〇
昭和26年 〇吉鏡〇
昭和27年  〇〇 〇

昭和28年 栃 〇〇三
昭和29年 〇 〇〇〇
昭和30年 〇 〇大〇
昭和31年 松若〇〇〇

(この項目続く)

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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