大相撲

大関誕生の間隔3

戦後は昭和20年秋場から始まった。昭和21年は1場
所しか開催できなかった。昭和22年、23年は夏場所、
秋場所のみの年2場所であった。昭和24年から27年
は初、春、夏の年3場所であった。また、昭和28年
から昭和31年までは初、春、夏、秋の年4場所にな
った。この間の大関昇進をみていこう。

戦後初の大関は東富士であった。昭和20年秋場所の
ことであった。佐賀ノ花から1場所あけての昇進だ
った。戦後の混乱期は日本の古いものはだめという
風潮と食糧事情が悪かった。大相撲を開設する会場
もままならなかった時期である。

<東富士のブロマイド>

1場所あけて昭和22年夏場所、汐ノ海が大関として
登場した。汐ノ海は大関4場所で関脇に降格した。
その後3場所で大関に復帰したが、5所中3場所負
け越しで引退している。結局、大関在位は9場所だ
ったが、引退した場所を含め5場所負け越している。

3場所あけて昭和24年春場所、増位山が大関になっ
た。増位山は三保ヶ関部屋の所属だったが、師匠の
元滝ノ海が亡くなり出羽海(元両国=国岩)部屋に
身を寄せていた。相撲は激しい突っ張りで息子増位
山とはまるで違った取り口だった。だが、大関在位
は4場所で終わっている。

<増位山のブロマイド>

同じ年の昭和24年夏場所、千代ノ山が大関に昇進し
た。千代ノ山は戦後の期待の星であった。新大関の
場所及び翌場所連続優勝したが、横綱にはなれなか
った。その割に8勝-14勝で横綱になるという理解
に苦しむカタチで横綱になった。

4場所あけて吉葉山と鏡里が大関になった。吉葉山
は10勝-13勝-13勝で文句なしの昇進だった。とこ
ろが鏡里は9勝-8勝-11勝で本人も大関に昇進で
きるとは思っていなかった。使者を迎える日、知人
を東京駅に見送る予定であった。こうした経緯の両
力士だが、横綱は鏡里が先になり、優勝回数も鏡里
4回、吉葉山1回だからわからないものである。人
気は圧倒的に吉葉山があった。

<鏡里のブロマイド>

(この項目続く)

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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