引き続き3人の朝潮(汐)をみていこう。
3代目朝潮(男女ノ川)
新入幕 昭和3年春場所
引退 昭和17年春場所
幕内在位35場所
最高位 横綱
大関在位4場所
横綱在位12場所
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昭和3年春場所、男女ノ川として入幕した。翌年夏
場所から朝潮に改名した。めきめき頭角をあらわし、
昭和5年春場所に新小結に。将来の大物前頭2枚目
武蔵山と千秋楽に対戦した。
この一番みたさに観客が押しかけ、11時に満員木戸
止め(札止め)となった。旧両国国技館の収容人数
は2万8000人であったからいかにすごかったかがわ
かる。木戸止めは明治45年春場所以来のことであっ
た。この一番は武蔵山が切り返しで勝っている。
昭和7年1月、春秋園事件がおこり、大量の力士脱
退となった。その中に朝潮もいた。これに対し師匠
の高砂(元2代目朝潮)はかんかん。朝潮を名のる
ことを禁じられたため、男女ノ川に戻ることになっ
た。
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昭和8年春場所、別席で協会に復帰したときは、部
屋も佐渡ヶ嶽(元阿久津川)部屋になった。復帰場
所で優勝した男女ノ川は、翌年大関に昇進。大関4
場所で横綱に昇進した。しかし、横綱ではついに優
勝はなかった。無敵双葉山の時代であった。
引退後、一代年寄で協会に残るも理事会を欠席する
など熱心さに欠け、協会を離れることになった。こ
れが悲劇の始まりだった。その後保険の外交員など
様々な職を転々とした。衆議院選挙に立候補したが、
落選している。下足番もやった。最期まで不遇の人
生だった。
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川端要壽著 徳間書店刊>
(この項目続く)