大相撲

鵜呑みにできない大相撲

2023年2月19日

日本史は絶えず見直されている。関ヶ原から2キロ
に玉城があったことがわかり、秀頼と毛利輝元が入
るためつくられたとみられる。桶狭間の戦いは信長
の誘い出しであり、信長軍は弱小ではなかった。し
かるに相撲史はどうだろうか。まず、横綱である。
疑わしい横綱がいる。
初代 明石
2代 綾川

3代 丸山

<谷風と小野川の錦絵>

これは幕末の横綱陣幕が横綱を免許された力士をピ
ックアップしたものである。地位でもなく、ほかに
も強豪力士がいる中で今までそういう発想をした者
はいなかったし、必要性がなかった。陣幕は特に相
撲史に通じていたわけでなく、ほかの方の知恵を拝
借した節がある。陣幕が定めた初代から3代は横綱
の免許を受けた痕跡が見られないのだ。横綱の始祖
は谷風である。さらに、横綱は時代によって意味が
違うので区別する必要がある。

また、代数は交代して2人同時にいない場合に使用
する。歴代総理大臣、歴代社長は同時に2人以上は
いない。横綱はこれまで4人同時にいたことがあっ
た。したがって横綱は何人目と数えるのが正しい数
え方である。

<2代目梅ヶ谷のブロマイド>

横綱の土俵入りを雲竜型、不知火型というが、雲竜
と不知火がどういう土俵入りをしたか、わかってい
ない。これは彦山光三氏が決めつけたものである。
現在の土俵入りは2代目梅ヶ谷と太刀山であること
が判明している。梅ヶ谷型、太刀山型のほうが適切
である。

優勝はいまだに明治42年国技館開設とともにできた
と思い込んでいる相撲ファンがいる。当時は対戦相
手が休場すると自分も休場扱いになる時代である。
引き分け、預かり、無勝負が多かった。あったのは
時事新報社が幕内最高成績者の額を国技館に掲げる
制度である。しかも相撲ファンの関心は薄かった。

<賜杯>

大正14年摂政宮殿下(後の昭和天皇)からの下賜金
によって天皇賜杯がつくられ、大正15年から最高成
績者に授与されるようになった。これを機に優勝を
協会が認定、表彰するようになった。最初の優勝者
は横綱常ノ花である。

取り直し制度はいつからできたのか。星取り表上預
かり、無勝負がなくなったのは大正15年一月場所で
ある。しかし、制度として正式に決めたのは前年の
11月である。取り直しは現在のようにすぐ取り直さ
ず、2番後取り直した。それでも勝負がつかないと
きは、別の日に再戦した。

<常ノ花のブロマイド>

不戦勝制度は昭和2年関西でおこなわれた十月場所
から正式に適用された。それ以前には熱戦後取り直
しで一方が、疲労が激しく棄権したため不戦勝にな
ったことがある。不戦勝の制度が徹底していなかっ
たため、不戦勝は正規の勝ち星より劣るといった考
えが一人歩きしていた。そのため、昭和3年3月正
式に不戦勝不戦敗制度が確立して、これ以降不戦勝
の力士は土俵で勝ち名乗りを受けるようになった。

今後新たな優勝制度の仕組みをいれるとしたら優勝
資格制度をあげる。優勝する資格は出場した横綱・
大関と全員と対戦した力士に限るという規定である。
出場する横綱・大関が少ない場合は関脇・小結の半
分以上対戦する、を加える。そうしないと一月場所
の琴勝峰のようにわずか三役一番だけで優勝する可
能性があった。

過ちては改むるにはばかることなかれ。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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