日本史は絶えず見直されている。関ヶ原から2キロ
に玉城があったことがわかり、秀頼と毛利輝元が入
るためつくられたとみられる。桶狭間の戦いは信長
の誘い出しであり、信長軍は弱小ではなかった。し
かるに相撲史はどうだろうか。まず、横綱である。
疑わしい横綱がいる。
初代 明石
2代 綾川
3代 丸山
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2023/02/谷風小野川-1024x740.jpg)
これは幕末の横綱陣幕が横綱を免許された力士をピ
ックアップしたものである。地位でもなく、ほかに
も強豪力士がいる中で今までそういう発想をした者
はいなかったし、必要性がなかった。陣幕は特に相
撲史に通じていたわけでなく、ほかの方の知恵を拝
借した節がある。陣幕が定めた初代から3代は横綱
の免許を受けた痕跡が見られないのだ。横綱の始祖
は谷風である。さらに、横綱は時代によって意味が
違うので区別する必要がある。
また、代数は交代して2人同時にいない場合に使用
する。歴代総理大臣、歴代社長は同時に2人以上は
いない。横綱はこれまで4人同時にいたことがあっ
た。したがって横綱は何人目と数えるのが正しい数
え方である。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2023/02/横綱 二代目梅ヶ谷-1.jpg)
横綱の土俵入りを雲竜型、不知火型というが、雲竜
と不知火がどういう土俵入りをしたか、わかってい
ない。これは彦山光三氏が決めつけたものである。
現在の土俵入りは2代目梅ヶ谷と太刀山であること
が判明している。梅ヶ谷型、太刀山型のほうが適切
である。
優勝はいまだに明治42年国技館開設とともにできた
と思い込んでいる相撲ファンがいる。当時は対戦相
手が休場すると自分も休場扱いになる時代である。
引き分け、預かり、無勝負が多かった。あったのは
時事新報社が幕内最高成績者の額を国技館に掲げる
制度である。しかも相撲ファンの関心は薄かった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2023/02/181125千秋楽表彰-002.jpg)
大正14年摂政宮殿下(後の昭和天皇)からの下賜金
によって天皇賜杯がつくられ、大正15年から最高成
績者に授与されるようになった。これを機に優勝を
協会が認定、表彰するようになった。最初の優勝者
は横綱常ノ花である。
取り直し制度はいつからできたのか。星取り表上預
かり、無勝負がなくなったのは大正15年一月場所で
ある。しかし、制度として正式に決めたのは前年の
11月である。取り直しは現在のようにすぐ取り直さ
ず、2番後取り直した。それでも勝負がつかないと
きは、別の日に再戦した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2023/02/大相撲-『常の花』.jpg)
不戦勝制度は昭和2年関西でおこなわれた十月場所
から正式に適用された。それ以前には熱戦後取り直
しで一方が、疲労が激しく棄権したため不戦勝にな
ったことがある。不戦勝の制度が徹底していなかっ
たため、不戦勝は正規の勝ち星より劣るといった考
えが一人歩きしていた。そのため、昭和3年3月正
式に不戦勝不戦敗制度が確立して、これ以降不戦勝
の力士は土俵で勝ち名乗りを受けるようになった。
今後新たな優勝制度の仕組みをいれるとしたら優勝
資格制度をあげる。優勝する資格は出場した横綱・
大関と全員と対戦した力士に限るという規定である。
出場する横綱・大関が少ない場合は関脇・小結の半
分以上対戦する、を加える。そうしないと一月場所
の琴勝峰のようにわずか三役一番だけで優勝する可
能性があった。
過ちては改むるにはばかることなかれ。