大相撲

2022年6月版二所ノ関の系統

元稀勢の里の二所ノ関が6月5日茨城・阿見
町で部屋開きをおこなった。すでに独立して
いたが、そのとき稽古場は完成していなかっ
た。つくば市の筑波大の稽古場を使用して
いた。ようやく持てた自分の城は1800坪と
いう広大な敷地に建てられた。元琴風の尾車
部屋からの移籍組も加わって、現在弟子は
18人である。

<元稀勢の里の二所ノ関>

元稀勢の里の二所ノ関部屋は分家(大ノ海)
の分家(初代若乃花)の分家(隆の里-隆の
鶴)の分家に位置する。小部屋だった本家
二所ノ関部屋を大きくしようとしたのが玉錦
である。昭和13年頃は60人の弟子がいた。
関取の玉ノ海、佐賀ノ花、幕下以下に若ノ花
(のちの大ノ海)、神風、福住(のちの玉乃
海)、琴錦らがいた。

本家二所ノ関は玉ノ海の代に一大方針を打ち
出した。幕内にまでなった者は自分の弟子を
持ち、引退後は分家独立をして部屋を持てと
いう画期的なものだった。玉ノ海の二所ノ関
自身は佐賀ノ花に部屋をゆずって相撲界を
あとにした。

<玉ノ海のブロマイド>

この方針で独立した者の一人が元大ノ海の
芝田山であった。のちに花籠部屋として横綱
若乃花をはじめ、若秩父、若三杉、若ノ海、
横綱輪島、大関魁傑らを育てた。花籠部屋
から独立したのが元土俵の鬼若乃花の二子山
部屋であった。横綱2代目若乃花・隆の里、
大関貴ノ花・若島津らを育てるという偉業を
成し遂げた。

<若乃花のブロマイド>

二子山部屋から独立した弟子が、隆の里の
鳴戸部屋であった。稀勢の里、高安、若の里、
隆の若らを育てた。十一月場所福岡国際セン
ターであるファンが「親方、現役のときは
何という名前でしたか」と尋ねた。元横綱は
「いやいや、私はそんな有名な力士ではあり
ませんでしたので」と答えたのを目の当たり
にしたことがあった。

<元隆の里の鳴戸>

親方急死によって部屋は元隆の鶴に引き継が
れた。だが、遺族との話し合いがつかず、
田子ノ浦部屋として再スタートした。稀勢の
里はここから独立したわけである。なお、
鳴戸は現在元琴欧洲の手に渡っている。

二所ノ関部屋本家はもはやないが、分家独立
奨励の精神は脈々と続いている。同時に部屋
の継続はむずかしく、12の部屋が消滅、閉鎖
及び部屋別総あたりにともない本家に戻って
いる。最近はないが、片男波(元玉乃海)、
押尾川(元大麒麟)の独立ではお家騒動が
あった。元琴錦の朝日山を含め、現在11の
部屋が系統としてつながっている。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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