大相撲

殊勲賞の中身Ⅱ 5【昭和41年~42年】

昭和41年から42年にかけて大鵬が第二次6連
覇を達成した。優勝回数では19回目から26回
目へ伸ばした時期である。新しい力として
北の 冨士、玉乃島、琴櫻が台頭してきた。

昭和41年一月場所、北の冨士は優勝力士柏戸
に唯一の土をつけて殊勲賞を初受賞した。
当時はウかんむりの「富士」ではなく「冨士」
であった。続く三月場所は優勝大鵬に勝って
文句なしの連続殊勲賞となった。北の富士は
のちに優勝するが、大鵬に勝っての優勝は
なかった。北の冨士の殊勲賞はこの2回で
終了した。

<北の冨士>

五月場所、麒麟児が初めて横綱と対戦した。
大鵬とは同部屋のため、対戦はなかった。
昭和40年十一月場所大関北葉山戦のみ経験
していた。この場所横綱柏戸を倒して殊勲賞
を獲得した。麒麟児はさらに翌年の昭和42年
一月場所、五月場所でも柏戸に勝って殊勲賞
を受賞している。この当時麒麟児は柏戸に
強かった。2年間の対戦成績は以下である。

昭和41年……○○…●
昭和42年○○○●●○

通算でも9勝8敗と麒麟児が勝ち越している。
柏戸キラーだった。

<麒麟児のブロマイド>

玉乃島も横綱柏戸を倒し、七月場所、九月
場所と連続殊勲賞に輝いている。通算4度目
の殊勲賞であった。大関が豊山一人になり、
その豊山は期待できる年齢ではなくなって
いた。先場所後の北の冨士に続いて、玉乃島
が場所後大関に昇進している。

十一月場所、琴櫻が殊勲賞を受賞した。横綱
を二人倒したのは昭和41年では初めてだった。
柏戸、佐田の山がもう少し好成績ならよかっ
たが。昭和42年九月場所も2横綱柏戸、佐田
の山から勝利して殊勲賞を受賞している。
琴櫻はケガをして十両落ち後に相撲が変わっ
た。左下手からの投げからぶちかましての
突き押し、のど輪の相撲になった。

<琴櫻>

昭和42年三月場所の藤ノ川は殊勲賞としては
弱かった。七月場所、琴櫻の弟弟子長谷川が
殊勲賞を獲得した。優勝柏戸にただ一人黒星
をつけた殊勲中の殊勲であった。十一月場所
は曲者海乃山が大鵬に土をつけてただ一度の
殊勲賞を手中にした。

昭和42年十一月場所から王者大鵬は5場所
連続休場という苦境に陥った。

地元のラーメン屋にいってきました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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