大相撲

年間最多勝の変遷8

2021年9月1日

昭和58年、時代は北の湖から千代の富士へと
移っていった。ただ、千代の富士は年間最多
勝力士には3回しかなっていない。新横綱で
途中休場したことが今後の千代の富士を暗示
していたのか、1年に1回は休場する傾向が
あった。1年間フル出場したのは昭和57年と
昭和60年の2回しかない。休場はどうしても
年間最多勝にとってマイナスにつながる。

一時期千代の富士にたちふさがったおしん
横綱隆の里、横綱のチャンスがあった南海の
黒豹若嶋津が休場千代の富士に代わって年間
最多勝力士になっている。千代の富士は昭和
58年68勝7敗15休、昭和59年51勝17敗22休で
終わっている。

<千代の富士>

千代の富士のあとは同時期活躍した北勝海、
旭富士が台頭してきた。北勝海は千代の富士
と同部屋のため、本割で対戦はなかった。
ただ、1度平成元年七月場所、優勝決定戦で
対戦して千代の富士が兄弟子勝ちをしている。
旭富士は好成績をあげながら千代の富士、
北勝海にたちふさがられた。旭富士が横綱を
決めた平成2年七月場所千秋楽、千代の富士
を懇親の力でたおした一番は力がはいった。

<北勝海>

平成3年は転換期の始まりであった。五月
場所横綱千代の富士が引退、続いて七月場所
横綱大乃国が引退した。横綱北勝海は3場所
休場、横綱旭富士も2場所休場した。旭富士、
北勝海は翌年引退している。平成3年は大関
霧島が年間最多勝力士となったが、62勝28敗
という年6場所では最低の結果となった。

<旭富士>

(この項目続く)

一挙に涼しくなりました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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