大相撲

大正中期後期の初日千秋楽の曜日

2021年8月19日

国技館の火災によって大相撲は晴天興行を
せざるをえなくなった。大正7年春場所は
靖国神社で興行したが、かえって関心を呼び、
人気となった。ただ、横綱太刀山・西ノ海、
大関朝潮、平幕土州山が全休、10力士が途中
休場及び途中出場であった。靖国神社興行は
4場所2年に及んだ。途中工事中の国技館が
大音響とともに崩れ落ちるハプニングがあっ
たためである。4場所の初日は金曜、日曜、
日曜、土曜となった。晴天興行なので千秋楽
は天気次第であった。

大正9年春場所から再建国技館での興行と
なった。しばらく初日金曜、千秋楽日曜が
続いた。大正12年春場所前に突如事件は起き
た。本場所を1月12日に控える3日前、力士
会は養老金(退職金)の倍額、本場所収入の
分方を1割から1割5分にする、十両入りし
た力士は幕下以下に落ちても配慮する処置を
するという3ヶ条の要求を協会に提出した。

<両国国技館絵ハガキ>

協会は重大な問題だけに場所前の解決は無理。
場所後慎重に検討する回答を明示したが、
横綱・大関を除く幕内力士・十両力士は即時
回答を要求し、上野の上野軒に立てこもった。
協会は幕下以下だけで本場所を開催し、不出
場者に破門除名を通告した。力士会は三河島
の日本電解工場に土俵をつくって稽古を始め、
長期戦の様相となった。世にいう三河島事件
である。

横綱・大関は参加していなかったが、調停役
として横綱大錦は「死を賭して解決にあたる
つもりだ」と語ったために相撲界を去るきっ
かけになった。場所後、次の興行から1日
増やして、養老金(退職金)を幕内5割増し、
十両2割5分増しとした。

<大錦のブロマイド>

再び国技館興行ができない事態が発生した。
大正12年9月1日11時58分関東大震災が発生
したのだ。神奈川県、東京府及び茨城県、
千葉県、静岡県に甚大な被害が及んだ。被害
の中心は火災であった。国技館はいうに及ば
ず、力士・呼出、年寄、床山もほとんど家財
を失った。国技館は不幸中の幸いで半分以上
は残った。

焦土と化した東京で興行することは無理で
あった。東京角力協会はついに名古屋で興行
することを決心した。異例の地方開催であっ
た。そのせいか連日盛況となった。この興行
も初日金曜、千秋楽日曜となった。

<国技館内絵ハガキ>

大正12年夏場所から三河島事件の結果11日制
になった。最初は初日金曜、千秋楽月曜だっ
たが、千秋楽を日曜になるよう修正された。
大正15年から優勝制度が始まった。また、
大阪相撲との東西合併が進み、大日本相撲
協会として結成の調印がおこなわれた。大相
撲は新たな形で昭和へとはいっていくことに
なる。

玉鷲が帰化しました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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