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大正中期後期の初日千秋楽の曜日

国技館の火災によって大相撲は晴天興行を
せざるをえなくなった。大正7年春場所は
靖国神社で興行したが、かえって関心を呼び、
人気となった。ただ、横綱太刀山・西ノ海、
大関朝潮、平幕土州山が全休、10力士が途中
休場及び途中出場であった。靖国神社興行は
4場所2年に及んだ。途中工事中の国技館が
大音響とともに崩れ落ちるハプニングがあっ
たためである。4場所の初日は金曜、日曜、
日曜、土曜となった。晴天興行なので千秋楽
は天気次第であった。

大正9年春場所から再建国技館での興行と
なった。しばらく初日金曜、千秋楽日曜が
続いた。大正12年春場所前に突如事件は起き
た。本場所を1月12日に控える3日前、力士
会は養老金(退職金)の倍額、本場所収入の
分方を1割から1割5分にする、十両入りし
た力士は幕下以下に落ちても配慮する処置を
するという3ヶ条の要求を協会に提出した。

<両国国技館絵ハガキ>

協会は重大な問題だけに場所前の解決は無理。
場所後慎重に検討する回答を明示したが、
横綱・大関を除く幕内力士・十両力士は即時
回答を要求し、上野の上野軒に立てこもった。
協会は幕下以下だけで本場所を開催し、不出
場者に破門除名を通告した。力士会は三河島
の日本電解工場に土俵をつくって稽古を始め、
長期戦の様相となった。世にいう三河島事件
である。

横綱・大関は参加していなかったが、調停役
として横綱大錦は「死を賭して解決にあたる
つもりだ」と語ったために相撲界を去るきっ
かけになった。場所後、次の興行から1日
増やして、養老金(退職金)を幕内5割増し、
十両2割5分増しとした。

<大錦のブロマイド>

再び国技館興行ができない事態が発生した。
大正12年9月1日11時58分関東大震災が発生
したのだ。神奈川県、東京府及び茨城県、
千葉県、静岡県に甚大な被害が及んだ。被害
の中心は火災であった。国技館はいうに及ば
ず、力士・呼出、年寄、床山もほとんど家財
を失った。国技館は不幸中の幸いで半分以上
は残った。

焦土と化した東京で興行することは無理で
あった。東京角力協会はついに名古屋で興行
することを決心した。異例の地方開催であっ
た。そのせいか連日盛況となった。この興行
も初日金曜、千秋楽日曜となった。

<国技館内絵ハガキ>

大正12年夏場所から三河島事件の結果11日制
になった。最初は初日金曜、千秋楽月曜だっ
たが、千秋楽を日曜になるよう修正された。
大正15年から優勝制度が始まった。また、
大阪相撲との東西合併が進み、大日本相撲
協会として結成の調印がおこなわれた。大相
撲は新たな形で昭和へとはいっていくことに
なる。

玉鷲が帰化しました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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