大相撲

稀な存在になりつつある日本人横綱

以前横綱10大史を発表した。
横綱10大史1その起源
横綱10大史2制度の継続
横綱10大史3横綱番付に登場
横綱10大史4歴代横綱登場
横綱10大史5横綱地位となる
横綱10大史6根拠のない土俵入り名と意味
横綱10大史7横綱審議委員会誕生
横綱10大史8千代の山横綱返上問題
横綱10大史9双羽黒横綱途上で相撲界を去る
横綱10大史10外国人横綱誕生

横綱10大史10の外国人横綱誕生は小錦のとき
実現しなかった。小錦は13勝優勝-12勝-13
勝優勝というチャンスを見送られていた。
外国人横綱はいらないと題する論文が雑誌に
掲載されたのはこのときである。小錦が横綱
になれないのは人種差別によるものだと大騒
ぎになった。

<曙>

外国人初の横綱は次の世代、曙によって実現
した。横綱空白期で2場所連続優勝して誕生
した。曙以降の横綱はどうなったか。それが
以下になる。圧倒的に外国人横綱が多くなっ
た。日本人横綱は10人中3人である。外国人
横綱はハワイからモンゴルへと変遷していっ
た。


貴乃花
3代目若乃花
武蔵丸
朝青龍
白鵬
日馬富士
鶴竜
稀勢の里
照ノ富士

<朝青龍>

日本人横綱は稀な存在になりつつある。曙、
武蔵丸のときは貴乃花が彼らを凌駕していた。
だが、貴乃花が去った土俵では、朝青龍、
白鵬に対抗できる日本人力士はいなかった。
朝青龍は29歳までに25回優勝した。怪童北の
湖越えをしてしまった。白鵬は63連勝、45回
優勝と千代の富士・大鵬越えどころか、大き
く引き離してしまった。

<白鵬>

それだけに横綱稀勢の里が誕生したときは
予想以上の騒ぎであった。明治神宮の土俵
入り披露では朝の9時から列ができ、入場を
制限したほどである。午後3時半過ぎに始ま
り、 しかも土俵入りはわずか1分半くらいで
あるにもかかわらず、多くの人が集結した。
牛久で優勝パレードをしたら、5万人が見に
来たという。とにかく稀勢の里のいくところ
人が集まったという現象が続いた。

残念ながら稀勢の里は致命的なケガのため、
横綱休場が多くなった。最後は5連敗休場、
4連敗で引退した。最後の対戦相手は栃煌山
であった。ただ、引退後も人気は相変わらず
すごかった。

<稀勢の里>

モンゴル人力士は必ずしも貧しい家庭では
ないが、モンゴル人にとって大相撲はジャ
パンドリームを実現する場である。モンゴル
の平均月収は249米ドルと貨幣価値が違う中
で大相撲は大きな魅力である。小泉首相(首
相当時)は「相撲は国技から国際技になった」
と言った。次の日本人横綱は果たして誰が
何年後になるのか。

卓球は格闘技か、と思うほど激しい。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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