大相撲

昭和・平成の横綱ベスト15 下

11位羽黒山
12位玉の海
二人に続くのはやはり輪島である。輪島は
2年連続学生横綱を引き下げ、大相撲界に
入ってきた。評価は必ずしも高くなかった。
胸が薄く、頭をつける、下手の技など相撲が
小さかった。ところが輪島は幕下付け出しで
2場所連続全勝優勝して、無敗のまま十両
入りした。

相撲の天才児は、ついに横綱を手中にした。
マシーンのような強さ。羽黒山の堅実さ、
強さと安芸ノ海のうまさをあわせたのが、
輪島の相撲。すり足、顎があがらない、腰を
落として攻める。大胆な中に緻密さがある。
攻撃から防御、防御から攻撃と相撲にリズム
がある。輪島の強さの一番のポイントは腰の
中心点に寸分のくるいもないということだ。
投げを打つときの体の開きは天才的と賞賛
された。

<輪島>

大関から横綱になった北の湖には強かった。
輪島と北の湖が優勝を争うようになったのは
昭和51年から52年である。横綱優勝12回、
横綱優勝率26%、横綱勝率7割6分6厘。
輪島を13位とした。

曙は貴乃花・3代目若乃花と同期である。
大関、横綱は曙が先行した。小錦のとき外国
人横綱はいらないという記事が雑誌に掲載
された。また、小錦が横綱になれなれなかっ
たのは人種差別だ、という声があったが、
曙のときは消えていた。

<曙>

曙の突きの破壊力は大変なものだった。平成
5年七月場所、横綱曙、大関貴ノ花、関脇
若ノ花が優勝決定巴線をおこなった。曙の
突きの前に若貴はひとたまりもなかった。
貴乃花が体重増加に走るのも無理はなかった。
横綱優勝8回、横綱優勝率17%、横綱勝率
7割8分。曙を第14位とした。

武蔵丸は遅れてきた横綱であった。大関在位
32場所は横綱になった大関在位記録としては
最長タイ記録である。大関で5回優勝して
いる。ハワイ勢は伝統的にパワー戦法である
が武蔵丸も例外ではなかった。加えてがっち
りしたごつい筋肉で固めた体が武器でもあっ
た。

<武蔵丸>

横綱後は優勝をかけての横綱決戦は意外と
少ない。貴乃花と4度あるだけ。相星決戦
2度、1差決戦2度である。武蔵丸は相星
決戦を制して2回優勝している。横綱優勝
7回、横綱優勝率26%、横綱勝率7割6分
3厘。武蔵丸を15位とした。

昭和・平成の横綱ベスト15の人数わけは以下
のようになった。
戦前3人
戦後19年3人
昭和40年から63年4人
平成5人
横綱誕生時に基づいている。羽黒山は戦後の
活躍のほうが長く、千代の富士は平成初期
まで活躍した。昭和・平成の横綱ベスト15は
異論反論があるのを承知の上で選ばせていた
だいた。

(この項目終わり)

北海道物産展をやっていました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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