大相撲

立浪(元緑嶋)が育てた弟子たち3

昭和15年春場所羽黒山が大関に昇進した。
さらに昭和17年春場所横綱に上がった。立浪
は一代で2人の横綱を育てた。それも横綱中
の大横綱双葉山と強豪横綱羽黒山の2横綱で
ある。さらに昭和18年春場所名寄岩が大関に
昇進した。双葉山、羽黒山、名寄岩は立浪
三羽烏と呼ばれた。羽黒山が大関に昇進した
のは双葉山が7回目の優勝をしたときであり、
横綱に昇進したのは、双葉山が9回目の優勝
のときであった。取組は昭和15年から東西制
に戻された。

<羽黒山のブロマイド>

なお、双葉山は師匠の娘を勧められ、立浪
部屋を継ぐ話があったが、断っている。双葉
山は一般女性小柴澄子さんと昭和14年4月
29日に結婚している。連勝ストップ後のこと
である。さらに巡業の分配金(当時、巡業は
一門あるいは部屋ごとの独立採算制であった)
をめぐり、師匠と折り合いがつかなかったと
いう。そのためか昭和16年5月、双葉山は
10人の弟子を連れ、現役独立して双葉山相撲
道場をおこしている。

<双葉山のブロマイド>

双葉山は立浪から距離をおいたが、立浪は
強行に縁談をすすめたことはなかった。立浪
が双葉山に言葉をあらげたこともなかったと
いう。立浪が亡くなったとき、真っ先に駆け
つけたのが元双葉山であった、ということを
付記しておく。

昭和15年夏場所、若浪義光が入幕した。樺太
出身。幕内は1場所務めただけであった。
1年後の昭和16年夏場所、双見山が入幕した。
大分県出身(愛媛県生まれ)で双葉山に体
つきが似ていたので16ミリ双葉山と呼ばれた。
最高位は前頭筆頭だった。昭和18年夏場所
緑國が入幕した。最高位は前頭9枚目であっ
たため、目立った活躍はなかった。

<双見山のブロマイド>

昭和19年夏場所、立田野が入幕した。勝ち味
が遅く、幕内在位は4場所であった。昭和
20年夏場所、緑島が入幕した。幕内を9場所
務め、最高位は前頭4枚目であった。同時期、
愛知山が入幕した。その名の通り愛知県出身
である。幕内在位21場所、最高位前頭4枚目
であった。羽黒山の露払いを務めたことが
あった。

<羽黒山>

羽黒山は、双葉山と時代が重なる戦前・戦中
は13勝以上が5度もあった。だが、優勝は
わずか1度であった。羽黒山が台頭したのは
双葉山の引退後で戦後だが、時代は混乱期で
あった。日本の古いものはすべてだめという
風潮であった。さらに両国国技館を進駐軍に
摂取され、本場所開催に苦労していく時代で
あった。

(この項目続く)

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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