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大関の復帰2

■魁傑
花籠(元大ノ海)部屋
188センチ、128キロ
得意手は突っ張り 左四つ寄り
クリーン魁傑といわれた
魁傑は日大を中退して昭和41年に花籠(元
大ノ海)部屋へ入門した。大学では柔道部で、
段位は3段だった。輪島より入門が約2年
4カ月早い。だが、常に脚光を浴びてきた
のは輪島だった。

魁傑が注目をされたのは、昭和47年三月場所
であった。入幕4場所目、前頭7枚目で勝ち
進み、横綱北の富士、大関清國、関脇長谷川・
三重ノ海を撃破して12勝3敗で優勝決定戦に
進出した。相手は関脇長谷川だった。長谷川
は本割では魁傑に外掛けで負けているだけに
決定戦では考えた相撲をとった。魁傑が外掛
けにくるところを寄って出た。魁傑は優勝を
逃したが、存在を示した。

<魁傑の記事>

なお、昭和47年三月場所は大関清國対関脇
長谷川、関脇輪島対関脇三重ノ海戦がなかっ
た、という取組編成のお粗末さを露呈した。

魁傑は7勝-12勝優勝-11勝で昭和50年一月
場所後大関に昇進した。横綱は北の湖、輪島、
大関は貴ノ花であった。しかし、大関は5場
所しか維持できなかった。魁傑は、素材は
よかったが、相撲が窮屈な面があった。玉の
海梅吉氏はズボンの片方に両足をいれている、
と評した。

関脇から平幕まで番付を下げた。5場所後
前頭4枚目14勝1敗で優勝した。この後11勝
-11勝を続けて若三杉(2代目若乃花)と
とも に再び大関に昇進した。不撓不屈の 魁傑
に誰もが拍手した。

<魁傑>

魁傑は「休場は試合放棄」と負けが込んでも
休まなかった。この言葉は当時相当のイン
パクトをもって受け止められた。これまで
横綱・大関は負けが込むと休場があたりまえ
であった。この悪しき因習に誰もがすっきり
しないものを感じていたのを魁傑が一掃した。

2度目の大関は4場所しかもたなかった。
魁傑で忘れられないのが、2度目の大関陥落
後の3場所目の昭和53年三月場所での大関
旭国との死闘である。2度の水入りで勝負が
つかず、1番後取り直し(通常は2番後だが
残された取組は1番だった)。取り直しの
一番も水入りかと思われた直後、魁傑の渾身
のすくい投げがきまり、熱戦に終止符をうっ
た。打ち出しは18時20分を過ぎていた。

<北出清五郎著土俵に賭けるハートワーク(世界文化 社刊)の中の休まない男より>

魁傑は終始クリーンであった。おかしな相撲
は取らなかった。この1点だけで高く評価
できる。これは弟子の大乃国に引き継がれて
いった。がちんこ大乃国が千代の富士の連勝
をストップしたのは歴史的必然であった。

照ノ富士は果たして大関にカムバックできる
のか。三月場所が注目される。

(この項目終わり)

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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