・佐渡ヶ嶽(元琴ノ若)部屋
初代琴錦が引退後に二所ノ関(元佐賀ノ花)
部屋から独立した部屋。創設したものの本家
二所ノ関が琴ヶ濱を手放さない。ほかに二所
ノ関の幕内力士は玉ノ海(後の玉乃海)と
大天竜しかいなく、看板力士の琴ヶ濱を失い
たくなかった。琴ヶ濱が移籍できたのはなん
と3年以上たってからだった。琴ヶ濱はすで
に大関になっていた。
全休していた横綱琴櫻が引退を声明した。
しかし、師匠佐渡ヶ嶽(元初代琴錦)との
話し合いが十分行われていなかった。引退を
引っ込める、引っ込めないでもめ、感情的に
なってしまった。琴櫻は白玉部屋をおこす
予定であった。ところが病気中であった佐渡
ヶ嶽が突然亡くなってしまった。結局琴櫻は
佐渡ヶ嶽を引き継ぐことになった。
元琴櫻が定年を迎えたとき、琴ノ若は引退
して部屋を継いだ。琴ノ若は琴櫻の娘婿で
鎌谷家に婿入りしていた。常に大勢の弟子を
抱える部屋として繁栄している。
3代続いた部屋は5部屋であった。4代続い
た部屋に目をむけよう。
・春日野(元栃乃和歌)部屋
栃木山は春日野(行司木村宗四郎)の養子に
入っていたこともあり、元常陸山の出羽ノ海
(常陸山の代までノの字がある)存命中すで
に独立の認可を取り付けていた。春日野部屋
独立は元両国=前名国岩の出羽海のときおこ
なわれた。栃木山は人徳のある方で、生活
すべてを相撲につなげていた方だった。
彼の亡き後は弟子の栃錦が二枚鑑札で部屋を
引き継いだ。春日野部屋の力士に栃の字が
多くつくようになったのは、栃錦の春日野の
代からである。栃錦亡き後は元栃ノ海が継い
だ。彼の定年が迫ったとき、元栃乃和歌が
引き継いだ。元久島海の田子ノ浦が急死した
とき、弟子は春日野(元栃乃和歌)部屋と
出羽海(元鷲羽山)部屋にわかれて引き取ら
れた。碧山はそのときの弟子である。また、
三保ヶ関(元増位山子)部屋閉鎖のときにも
弟子を引き受けている。
・九重(元千代大海)部屋
九重部屋のルーツは出羽海部屋である。九重
部屋をおこした元千代の山は出羽海(元常ノ
花)部屋出身の力士である。元常ノ花の出羽
海亡き後、後継を争ったのが元出羽ノ花と
元千代の山であった。このときは元千代の山
がまだ若いということもあり、元出羽ノ花に
落ちついた。元千代の山の九重は次の出羽海
は自分という思いがあった。
ところが、大関佐田の山が出羽海の市川家に
婿入りしたのだ。部屋の名義は横綱佐田の山
のものになっていた。これで九重の出羽海
継承の可能性は完全になくなった。九重は
独立の腹を固めた。出羽海部屋には6代出羽
海(元両国=前名国岩)の代から分家独立を
許さずという不文律があった。九重が独立
した場合、同郷の北の富士、禊鳳、松前山の
気持ちを確認する必要があった。特に上京
したとき九重がわざわざ駅まで出迎えた北の
富士が重要ポイントであった。九重は、秀の
山(元笠置山)を通じて独立を申し入れた。
親方衆がすわるなか、大広間で出羽海はこう
いった「君の申し入れた部屋の分離を承認
する。ただし、要求した力士のなかに親が
反対している者が3人いるから残すように。
あとはよろしい」英断だった。九重の申し
入れがほぼ受けいられたカタチになった。
だが、出羽海はこう続けた。「分離によって
君と所属力士は出羽海、春日野といった一門
からはずす。いいな」名門からの破門であっ
た。
九重部屋は元前田山によって高砂一門に加わ
ることになった。この九重部屋から元北の富
士の井筒部屋が独立している。だが元千代の
山が51歳で亡くなったため、九重部屋と井筒
部屋を併合して新生九重部屋をスタートさせ
た。弟子の千代の富士が引退するとしばらく
して部屋を譲った。元千代の富士ががんで
急死すると、弟子の千代大海が部屋を継いだ。
九重部屋は千代の山-北の富士-千代の富士
-千代大海と続いている。
天気が不安定です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。