優勝争いの最大のハイライトは全勝同士が
千秋楽に激突することである。これは当然
ながらめったにみられることではない。優勝
制度が正式に協会認定としてスタートした
大正15年以降片手で数えるほどしかない。
それでは明治42年夏場所国技館開設とともに
時事新報社が幕内個人最高成績者の額を国技
館に掲げる様になってからはどうだろうか。
その時代、引き分け・預かり・無勝負が当然
あり、さらに対戦相手が休場したら自身の
星取りに「や」がつく制度であった。つまり、
取り直しも、不戦勝不戦敗もない時代であっ
た。そんな時代に全勝同士の力士が千秋楽に
対戦することは容易ではない。
いやそれでも1例だけある。大正6年春場所
のことである。横綱太刀山と大関大錦が千秋
楽に全勝同士で対戦している。太刀山は人に
よっては史上最強とする方がいるほど強豪中
の超強豪である。43連勝、時事新報社が個人
幕内最高成績者の額を国技館に掲げる制度で
9回最高成績をあげてある。当時の第一人者
で39歳であった。一方大関大錦は大正4年
春場所に新入幕。その2場所後(1年後)
にはすでに大関に昇進している。大正6年
春場所は大錦にとって大関3場所目であった。
まだ25歳であった。
当時は東西制で、同じ方屋は対戦しない。
したがって太刀山と大錦の共通対戦相手は
いない。太刀山は関脇栃木山、小結両國(前
名松ヶ崎)に勝って9勝。大錦は横綱鳳、
大関伊勢ノ濱、関脇大戸平、小結玉手山に
勝って9勝。横綱太刀山の反対側の方屋の
横綱西ノ海は途中休場であったため、千秋楽
で太刀山、大錦が9勝同士で対戦することに
なった。
この時代仕切り制限時間はない。太刀山は
化粧立ちをすることがある。常陸山が立つが
太刀山が立たない。そこで常陸山が力を抜い
たところを立つのである。いわばペテン立ち
であり、いかさま立ちである。太刀山はこれ
を逆に大錦に仕掛けられた。太刀山誘うよう
に立つと大錦は受けない、とみせていきなり
立つともろざし。太刀山たちまち土俵に詰ま
り、かかえてこらえた。太刀山起死回生の策
がないまま、大錦腰を落とし、ぐいぐい寄り
立て寄り切った。
観衆はあまりの光景に総立ち。蜜柑が投げ
込まれたり、大錦に飛びついたりと国技館は
これ以上ない大騒ぎとなった。全勝対決を
制した大錦は横綱に昇進した。
(この項目続く)
猛暑はどこまで続くのか。
興味深いテーマをこれからもお届けします。