大相撲

四股名あれこれ ~の山

朝乃山が大関に昇進したことで、四股名にも
強さが感じられるようになってきた。四股名
の響は結局その力士次第である。四股名と
いえば~山が多いようなイメージがあるが、
朝乃山のように~の山となるとぐっと限定
されてくる。そこで幕内力士に限定して~の
山の四股名を調べてみた。番付が現存する
宝暦7年10月以降の江戸-東京大相撲とした。
また、の、ノ、乃、野と字にはこだわらなか
った。

<朝乃山>

江戸時代、資料によっては出野山(いでの
やま)の名がみられる。だが、これは出野里
の誤りだと大相撲人物事典(ベースボール・
マガジン社)が指摘している。江戸時代は
以下の四股名があった。

秀ノ山
小野山
秀の山

秀の山は横綱であり、年寄名にもなっている
ので1度は耳にしていると思う。

明治では次の力士だけだった。

佐野山
芳ノ山

佐野山は年寄名になっている。ここまでは
年数のわりにささやかな人数である。

大正にはいると次の2力士が登場する。とも
に前頭が最高位である。吉野山は本名が吉野
というわけではない。

高ノ山
吉野山

昭和戦前は一人しかいない。

富ノ山

昭和戦後あたりから徐々に~の山が目立って
きた。

<千代の山のブロマイド>

千代の山
前ノ山 (前名醍醐山)
常ノ山
那智ノ山
甲斐ノ山
前ノ山(前名佐田岬)

千代の山は戦後相撲界の希望の星、期待の星
であった。やせた力士が目立つなかで千代の
山は筋肉隆々、肌つやもよかった。千代の山
は期待に応え、大関、横綱へと昇進していっ
た。引退後は分家独立を許さない出羽海部屋
から北の富士らを連れて破門独立した。

昭和年6場所制以降では以下の力士がいる。

佐田の山
海乃山
岡ノ山
前の山太郎
天ノ山

<佐田の山>

佐田の山は本名佐々田からついた四股名で
ある。闘志あふれる相撲で横綱になった。
大鵬戦は勝っても負けても熱戦だった。また、
学生さんには負けませんよ、という意気込み
で豊山(前名内田)戦に臨んだ。引退後は
出羽海部屋を継ぎ、理事長になった。

海乃山は最初、海力山で四股名を届けたの
が、海乃山と番付に書かれてしまった。それ
でいいやということで、海乃山で相撲を取っ
た。立ち合いのけたぐりで大鵬から殊勲の星
をあげたことがある。今けたぐりをやる力士
がいないのは寂しい。

前の山太郎は大関3場所34勝、直前は優勝
同点の成績で大関に昇進した。相撲は気合の
はいった突っ張りを得意としたが、大関に
なってからはついに2ケタ勝利をあげられ
なかった。

<前の山>

平成・令和は次の力士である。

常の山
和歌乃山
鳥羽の山
春ノ山
舛ノ山
隆の山
朝乃山

~の山はいないようでけっこういた印象で
ある。横綱を3人輩出している。朝乃山が
仲間入りするかどうかはこれからにかかっ
ている。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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