の理由は、出羽系(出羽海(元両国=前名
国岩)部屋、春日野(元栃木山)部屋、山分
(元大門岩)部屋)の力士が幕内の半分近く
を占めたことであった。西方で出羽系でない
力士は横綱男女ノ川と前田山の高砂系の2人
だけであった。しかし、東西制の復活は双葉
山対玉ノ海、双葉山対照國の取組を失うこと
になった。
双葉山の時代が続き、横綱・大関と対戦圏外
の好成績力士が優勝にからむことはなかった。
変化が訪れたのは昭和19年春場所である。
新入幕で前頭12枚目の三根山は、横綱・大関
と対戦圏外であった。ところが、彼より上位
の高津山、大熊が負けが込んだため、横綱
照國戦が組まれなかった。そのため、三根山
まで対戦が回ってきた。
三根山は西方力士だった。東方の横綱安芸ノ
海は全休で大関はいなかった。横綱照國は
大関以上唯一人の力士だった。西方は横綱
羽黒山、横綱双葉山、大関前田山が出場して
いた。三根山はたった一人とはいえ、横綱・
大関の対戦圏外出場した横綱・大関全員と
対戦したことになった。東西制が生んだ思わ
ぬ出来事であった。
終戦3ヶ月後の昭和20年秋場所、焼けた国技
館で本場所が開催された。ここで驚異の新入
幕力士が登場した。千代ノ山である。すべて
平幕相手だが、10戦全勝というこれ以上ない
成績をあげたのである。このとき、優勝は
同じく全勝の横綱羽黒山となった。
戦後日本の古いモノはみなだめという風潮の
なか、人気回復策として優勝決定戦制度が
発足された。これまでは幕内最高成績者が
複数いた場合、番付上位の力士が優勝者で
あった。それを対戦させて雌雄を決するので
ある。
その直後の昭和22年夏場所、同成績者が4人
も出たのである。横綱羽黒山、大関前田山、
大関東富士、前頭8枚目の力道山である。
力道山の成績はすべて平幕であった。優勝
決定戦は羽黒山対力道山、前田山対東富士戦
となった。勝者羽黒山と前田山の決戦となり、
羽黒山の優勝となった。
さらに人気回復策として翌場所から系統別
総当たり制の復活と三賞制度が実施される
ことになった。
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