大相撲

土俵の変遷

2018年4月11日

古代・中世に土俵はなかった。従ってすもう
といっても力比べや殺伐とした荒っぽい格闘
技であったと思われる。日本書紀にある野見
宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまの
けはや)の戦いは古代の話である。信長が
少女に相撲をとらせたというが、これはどう
も小説であるようだ。当然信長の時代も土俵
はない。

土俵の前提となったのは、人方屋と呼ばれる
戦う2人のまわりを力士が囲んだものである。
これが歴史的にいつ発生したものかは、はっ
きりしない。江戸時代にはいって投げ銭めあ
ての辻相撲が行われるようになる。セミプロ
といえるが、江戸初期土俵は存在しない。

土俵は勧進相撲のころ誕生したと言われて
いる。勧進相撲とは神社仏閣の建立修繕費の
資金を集める目的で寄進を勧めることである。
相撲絵では1673年から83年ごろ確認できる。
土俵の出現が相撲を大きく変えた。初期の
土俵は俵に土を詰めたものを地面に置いて
いただけであった。円形だけでなく、四角い
土俵も存在した。四角い土俵はコーナーに
詰まると逃げ切れなかった。
雲龍久吉■國明画
<二重土俵がわかる錦絵>

俵を土中にうめたのは享保(1716年~36年)
のころで、しだいに細俵になっていった。
土俵の直径は13尺であった。相撲の錦絵を
みると土俵が二重になっているものがある。
二重土俵は天明(1781年~89年)には既に
出現していた。内円に16俵、外円に20俵つか
われたため、土俵は36俵と呼ばれた。

昭和3年ラジオ放送の始まりとともに導入
されたのが、仕切り制限時間と仕切り線で
ある。それまでは仕切り線がなく、頭と頭を
つけ合ったまま立つこともあった。なお、
仕切り線の間隔は60センチであった。

昭和6年4月、天長節を祝し天覧相撲を開催
した。これを機会に二重土俵を一重にし、
土俵の直径が15尺に改められた。
180113初日前日 211
<土俵の儀式>

戦後の昭和20年11月、国技館の被災破損に
より晴天10日間興行がおこなわれた。この
とき16尺土俵になったが、力士会の反対で
1場所限りで15尺に戻る。

昭和45年五月場所から仕切り線の間隔が70
センチになって現在の土俵に至っている。 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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